2022年4月26日 (火)

ウクライナ戦争とマフノ運動

Ktktktshop_2022022105314600311-1 止まらない民間人の犠牲に耳を塞ぎたくなるような報道が続くウクライナの戦争に微かな既視感を抱き、本棚の奥に眠っていた『知られざる革命~クロンシュタット反乱とマフノ運動』(現代思潮社1966)を50年ぶりに読み返してみました。そもそもこのシリーズには『カタロニア賛歌』『ハンガリア1956』『報復~サヴィンコフ、その反逆と死』といった著作が並び、出版側の立ち位置は明確です。

 さて、舞台はウクライナ東部、今まさにロシア軍との激しい攻防戦が行われている地域です(現在の地名で言えばザポリージャ、マリウポリ、ドニプロペトロフスク、等々)。指導者のネストル・マフノはロシア革命直後の1918年から1921年にかけて農民軍を組織し、この地域一帯でアナキズム運動を展開しました。デニーキン、ウランゲリらに率いられた白軍、モスクワのボリシェヴィキに率いられた赤軍、そして土着のマフノ農民軍が三つ巴の激しい戦いを繰り広げ、ついには規律と戦闘力に勝るボリシェヴィキが最終的な勝利を収めます。何よりも自治を尊重し、支配権力や権威という概念そのものを否定するアナキズム運動の脆弱さが、最終的に権力の奪取を最優先課題としたボリシェヴィズムに敗北したものです。

 今回のウクライナ東部での戦いにマフノ軍を重ね合わすことはさておき、同じモスクワの支配下にある今のロシア軍とかつてのボリシェヴィキ軍とを重ね合わせことにそれほど無理はありません。そもそも赤軍というルーツが同じです。但し、今回の侵攻の切っ掛けがNATOの東方拡大に迫られたプーチンの反撃であり、一方、レーニンらかつてのモスクワ指導部の目論見は革命領域の積極拡大であったという基本的な違いがあります(プーチンが求めるロシアの安全保障は領土的な「野心」とは無縁と考えます)。しかし、戦いの終盤に陥ったマフノ軍の絶望的な状況と、現在の東部戦線の状況を重ね合わせると暗澹たる気持ちにならざるを得ません。マフノの闘いにおいては、権力や権威を否定するアナキズム運動が権力志向のボリシェヴィズムに敗れました。ウクライナ戦争では米国とNATO側の武器が流れ込むことで、ますます代理戦争化しています。勝者はなく、焦土化した土地、数えきれない墓標と疲弊した人々だけが残ってしまうのでしょうか?

 著者のヴォーリンはマフノの幕僚を務めていただけに立場は鮮明です。アナキスト運動による自治を過分に評価し、一方で、白軍やボリシェヴィキによる暴力や残虐性は強調され過ぎているきらいはあります。その辺りは割り引いて読む必要もあるでしょう。しかしながら、今回のウクライナ戦争を通じて、かつてこの地で確かに存在した歴史のひとコマとその意義を思い起こすことも無駄ではないように感じました。

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2020年5月 7日 (木)

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を読んでみた

Photo_20200507180501 新型コロナウィルスのまん延にはさすがに危機感を抱かざるをえず、世の中に合わせて巣ごもり状態となっています。外界との接触はもっぱら毎日1時間ほどの近所ウォーキングとZOOMを使った会合(いわゆる「ZOOM飲み」も含め)に限られています。いまだに無能・無策ぶりを発揮している安倍政権には怒りと情けなさがこみあげてくるばかりで、TVのニュースからもつい顔をそむけたくなる毎日が続いています。

  ということで(?)手に取ったのが『カラマーゾフの兄弟(光文社文庫、亀山郁夫訳)』です。学生時代以来、実に50数年ぶりの再会です。『カラマーゾフの兄弟』といえば、多感な青年時代のいわば通過儀礼のひとつとして読まれた方も多かったのではないでしょうか。私もそのひとりで、気儘でたっぷりと時間のあった下宿生活だったということもあり、思い切り没頭したものでした。

  さて、50数年前と比べるならば、読み手として観念的な場面への集中力の欠如や想像力の著しい劣化を自覚せざるをえませんでした(泣)。かつては何とか理解を深めようと、例えば「大審問官」の章は何度か繰り返して読みこんだものです(だからこそ、50年を経ても幾つかの場面を断片的に記憶していた)。しかし、今では、この難解な章は読み通すのはかなり辛い作業になっており、推敲への忍耐が続くことはありませんでした。

  登場人物への思い入れにしても、かつては偽悪的かつ自己満足的に自分の姿を重ね合わせていた次男イワンから、今回はむしろ裏がなく、素朴で単純、放縦、直情的で破滅型の長兄ドミトリーの姿により強い共感を覚えるように変わりました。脳内の劣化が観念的な思考を受け付けなくなったということだけではなく、世の中、観念や抽象的思考では動かないということを人生訓的に積み重ねてきたことの結果かなとも思います。

  一読者としてのこの期間中の大きな経験はロシアでの生活でした。西シベリアのトボルスクでの長期滞在に加えて各地を訪れることで、ロシアの大地、生活、人々に直接触れてきました。帝政時代にドストエフスキー家の領地があり、この小説の原点となる父親の殺人事件の現場ともなったモスクワ南部のトゥーラ県にも足を運んだことがありました。この地域、時代のロシア農村の風景を想像したり、また共に仕事をすることを通じて、ロシア人たちの様々な気質もある程度は理解できるようになりました。そのことが、観念で物事を考えてきた学生時代のイワンへの共感から、よりリアルな人間像としてのドミトリーへの乗り換えが起こったのかもしれません。

  亀山郁夫氏の翻訳は実に読み易く、このシリーズが新訳と銘打って発刊された時は大きな話題となりました、この難解な作品を広める新たなかつ大きな契機になったことと思います。ところで、訳者の亀山氏には『カラマーゾフの兄弟の続編を空想する 』というとても興味深い著作があります(2007.9光文社新書)。ドストエフスキーにより続編が計画されていたことは周知の事実ですが(そもそも本編小説の前書きに明記されている)、その内容についての推理と想像が大いに語られています。首題はどうやら第二の父親(皇帝)殺しで、アリョーシャが実行犯となるコーリャ(少年たちの一人でした)を示唆するというものらしいです。第一の殺人でイワンがスメルジャコフを示唆した構図の繰り返しになるのでしょうか?その後の主人公たちの往き末と共に永遠に読むことの出来ない物語に興味が尽きません。

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2011年2月26日 (土)

浅田次郎『一刀斎夢禄』

110226 浅田次郎の新作は新撰組の三番隊組長を務めた実在の人物、斎藤一を主人公とした物語です。大政奉還によって京を追われた後は新撰組の生き残りと共に鳥羽伏見、甲州勝沼、会津と転戦し、維新後はしばらくの謹慎期間を経た後に警察官となります。やがて警視庁抜刀隊の一員として西南戦争に加わり、明治を生き抜くという数奇な運命を辿ります。まず、斎藤一を逆読みして題名の「一刀斎」としているところに作者の遊び心を感じます。

この作者による「斎藤一」像というのはすでに「壬生義士伝」で隊内一の偏屈者にして沖田総司や長倉新八に並ぶ剣の達人として描かれており、その性格付けは本作品でもそのまま踏襲されています。彼の新鮮組内での役割は主に暗殺や策謀面で、実際に多くの隊士の粛清や伊東甲子太郎一派を襲撃した油小路事件での暗躍等が言われています。本作では更に近江屋事件(竜馬暗殺)への関与も描かれていますが、勿論真偽の程は不明です(とりあえず、小説内の出来事としておきましょう)。

興味深かったのは、京落ち以降の連戦連敗の中で行動を共にする隊士たちの生き様です。近藤や土方、沖田といった有名人たちは別としても、登場人物たちを実名で登場させ、しかも実際の運命と重ね合わせています。ウィキペディア上の隊士録と重ねあわせてみるととても興味深いものがあります。陰にせよ、日向にせよ、明治以降も生き残った隊士というはかなり多かったのですね。

物語は大正時代に入ってからの斎藤一の独白として進行していきます。淡々と進むため、このままオチのない物語として終わるのかなという懸念もありましたが読み進めていくうちに、敗北の繰返しと見込みのない転戦に翻弄されてゆく隊士たちの生き様と主人公の揺るぎのない偏屈ぶりに引きこまれていくのでした。殆んど一気読みでした。しかし、最後の西南戦争の場面は意外性がなく、はやりオチ不足の感は免れない印象でした。

さて、私にとっての斎藤一というのはかつて(1965年)の人気TV番組「新撰組血風録」のイメージがいまだに刷り込まれたままになっています(今でもたまにCSで再放送されています)。そこで描かれていた斎藤一というのは浅田次郎の描く人物像とは全く対極的で、瓢々とした風貌のとても人情味に溢れ剣客でした。原作は司馬遼太郎でしたがドラマ向けに大きく改編されており、更に俳優、左右田一平の醸し出す雰囲気によるところが大きかったと思われます(下の写真)。栗塚旭の土方歳三、島田順司の沖田総司と共にはまり役として大いに人気がありました。数十年を経た今でも新撰組というと彼らの作り上げたイメージが先行してしまうのです。古いなぁ・・・。

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2010年10月12日 (火)

浅田次郎・『マンチュリアン・リポート』

101010 「蒼穹の昴」、「珍妃の井戸」、「中原の虹」に続く、中国近代史を舞台にした浅田次郎の書き下ろしの新作を読みました。この作品は「蒼穹の昴」という大河小説に対する「珍妃の井戸」のように、「中原の虹」に対するサイドストーリー的な要素の強い作品です。「珍妃の井戸」では皇帝の愛妃殺害の瞬間に居合わせた多くの人物たちの証言集という多面的なミステリー手法を採ったように、この「マンチュリアン・リポート」でも張作霖爆殺の瞬間に向かう関係者たちの行動を解き明かすというミステリー色の濃い方法を採用しています。張作霖を乗せた機関車を擬人化して喋らせる場面では「トーマスか?」と思わずツッコミを入れたくなりますが、この御料列車の独白によって小説のロマン性が高まると共に、西太后時代から連なる歴史の一貫性がよく見えてきます。

プロローグでいきなり「人間」天皇を登場させます。躊躇さえ感じさせないそのくだけた口調によって天皇をいとも簡単にミステリー小説の一キャストとして扱ったことはちょっと驚きでした。このような、畏敬や、その一方での否定や批判の対象ではない天皇の描き方はこれまで読んだことがありません。

この小説で、すでに張作霖の爆殺が関東軍の陰謀行為であることは明白にしており、ミステリー色が濃いといっても、謎解きや犯人探しの物語ではありません。作者は張作霖という稀有の英傑(真偽は別として)の最後をロマンと覚悟と共に散った姿として描きたかったのでしょう。それにしても「中原の虹」での肩入れぶりに始まる張作霖への強い思い入れはどこからくるのでしょう?別途、その時代の歴史を紐解きたくなってきました。

小説の主人公である志津中尉、張作霖、トーマス、いや「鋼鉄の侯爵」に加えて、吉永中佐、岡圭之介、李春雷、李春雲といった懐かしい人物たちが登場します。やはり本篇の前には「蒼穹の昴」、と「中原の虹」を読んでおいた方が良さそうです。とりわけ最終章の紫禁城でのエピソードは前作を読んでいないと違和感があるでしょう。

さて、次は大河作品としての続編が楽しみになってきました。主人公は国共合作の立役者、張学良?あるいは「蒼穹の昴」でほんの数行だけしか登場しませんでしたが、野に逃れた王逸を師としたあの少年?

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2010年8月27日 (金)

浅田次郎・『終わらざる夏』

100827 丁度、65年前の夏、日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏を宣言した時にカムチャッカ半島から僅か13キロの距離にある最北端の占守島(シュムシュ島)と隣の幌筵島には満州から移動した無傷の機甲師団約23千名が滞陣しており(輸送手段がなくなりそのまま動けなくなっていた)、連合軍(米軍)による武装解除を待っていました。

ところが3日後の818日未明に突如にソ連軍が襲いかかってきて激しい戦闘状態に陥り、日本軍に約600名、ソ連軍に約3,000名の死傷者が出たのです。スターリンの目的は犠牲の発生による千島列島の奪取でした。そもそも無謀な攻撃であり、ソ連側に多数の死傷者が出ています。但し、生き残った日本軍の兵士たちにはシベリア抑留という更に過酷な運命が待ち構えていました。

この物語は、その占守島の戦いに直接的あるいは間接的に関わっていくことになる普通の将校、兵士、軍属やその家族たちを描きます。戦争も末期となり「根こそぎ動員」によって年配者や傷病者、不適格者たちまでが一片の徴兵通知によって戦地に送られていく姿が普通の人々の目線で語られていきます。

900ページに及ぶ大作ですが、占守島における戦闘場面は僅か10数ページに留まります。読売新聞へのインタビューで浅田次郎氏は「

僕は占守島の戦いを素材に、その時代、社会の背景とそれに翻弄される一人一人の思いを書きたかった。そのことが戦争を理解することになる」との趣旨を述べています。

暗い時代と愚かな戦争を背景としていますが、いかにもこの作者らしく、登場人物たちに未来を託す明るさと逞しさを持たせていることも忘れてはなりません。信州の疎開先から脱走する二人の子供、占守島の缶詰工場で働く挺身隊として動員された女学生たち、彼らを陰に日向に助ける大人たちなどのエピソードは国家が狂気の時代にあっても人間としての当たり前の感性を持ち続けている普通の市民たちの姿を描きます。彼らの存在があったからこそ、戦争によって国家は破綻しても社会は生き残ったのでしょう。

尚、占守島の戦いそのものについて大野芳著「817日、ソ連軍上陸す・占守島攻防記」(新潮文庫)を続けて読んでいます。ソ連軍侵攻部隊と戦い、その後シベリアに抑留された将兵たちからの聞きとり調査を基にしたドキュメントです。

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2010年7月28日 (水)

この夏の読書

100728 あまりの猛暑にブログネタと更新エネルギーも干上がり、暇な時間は熱中症予防を理由に冷房を効かせた部屋でもっぱら惰眠と読書です。

読書1:百田尚樹『永遠のゼロ』(講談社文庫)

本屋の店頭に山積みとなっていました。文庫化されてからとても売れているようですね。現代の青年が、「生きて帰る」ことに執着しながらも最後は特攻に散った戦闘機乗りの祖父の足跡を追うことで戦争に向き合っていくという物語です。登場人物の類型化や平板な文章といった小さな瑕疵はあるものの、深い内容と感動に満ちた作品です。綿密な調査の成果なのでしょうか、戦闘機部隊や特攻隊に関わった人々の想いを実に丁寧に描きます。重く考えさせるテーマを平易な作品に纏め上げることで、なまじっかの反戦論文よりもよほど大きなインパクトを与えてくれます。65回目の8月を迎えようとしているこの夏に、未読の方には是非お勧めしたいと思います。

読書2:吉澤誠一郎『清朝と近代世界』(岩波新書)

「中国近現代史シリーズ」の第一巻でアヘン戦争から清朝末期に至る期間を採り上げています。岩波新書では先行して「日本近現代史シリーズ」全10巻がすでに発売されており、日本の近現代史が良心的かつ新たな視点で綴られています。中国シリーズは始まったばかりですが、中国史というと、どうしても春秋戦国、楚漢、三国時代といった古代から中世にかけての当たり障りのない歴史と英雄ロマンが興味の中心となってしまいますが、この第一巻では日本の近代史にも直接に関わる清朝末期の様々な出来事を興味深く知ることが出来ました。

読書3:浅田次郎『蒼穹の昴』(講談社)

かつてのベストセラーですが、遅れ馳せながら中国近現代史シリーズ」の第一巻に触発されて一気呵成に読みました。西太后や光緒帝、李鴻章、康有為といった歴史の表舞台に立った人物たちと、作者が生み出した梁文秀(実在の梁啓超がモデル)、宦官の李春雲(春児)といった小説の主人公たちを巧く絡ませながら物語は壮大な人間ドラマとして発展していきます。つい先日までNHKでもドラマが放映されていましたね。見損なったので再放送に期待です。尚、続編として「珍妃の井戸」、「中原の虹」がすでに発表されていますので、この夏の後半の楽しみの一つです。

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2010年3月17日 (水)

トム・ロブ・スミス『グラーグ57 』

10031857 前作『チャイルド44の続編です。同じように政治的事件を背景とした激しい展開が続きますが、よりバイオレンス的色彩が強く、主人公レオのスーパーマンぶりと併せて若干辟易とさせられます。1956年の第20回党大会におけるフルシチョフの秘密報告と、同じ年に起こったハンガリー動乱は共に東側陣営における重大な歴史上のエポックですが、特に後者の動乱に物語を融合させる展開に無理を感じました。

ハンガリー動乱については「ハンガリア1956」というドキュメンタリーの名著があります。これは現代思潮社による「カタロニア賛歌」、「知られざる革命-クロンシュタットの叛乱とマフノ運動」、「報復-サヴィンコフの反逆と死」といった反スターリン主義の立場からの革命ドキュメンタリーシリーズのひとつで1970年代の新左翼系読者によってよく読まれたものです。ツァーリが支配する後進国に発生したロシア革命の特殊性そのものの中にすでにその萌芽があったとはいえ、革命の理念と建設への希望はスターリンの登場によって見事に裏切られることになったのです。

フルシチョフの秘密報告(講談社学術文庫1977年)もそれが日本で出版された時にはすでにスターリン神話は瓦解していたとはいえ、そこに記述された膨大な数の冤罪事件や民族的な虐待、多数の有能な軍人を粛清したことによりドイツとの戦争を一層悲惨なものにしてしまったことなどの事例はどんな小説よりもショッキングなドキュメンタリーとなっていました。しかし、ロシアが実質的に内外の雪解けに向けた歩みを果たすのは、その後ブレジネフ書記長時代(1964-1982)の長い保守停滞期間を経て、1982年のアンドロポフ書記長の登場を待つことになります。そのアンドロポフが1956年にはハンガリー大使として動乱の鎮圧に関わり、その後、KGB議長を務めていたというのは歴史の皮肉でしょう。

私事になりますが、私が初めてモスクワを訪れたのは1977年のことでした。以降、仕事で接してきた多くの年配の技術者たちにはスターリンの時代を生き抜いてきたという苛烈な歴史があったのでしょうが、私たちの前では穏やかな態度と笑顔を絶やすことはありませんでした(一部の高圧的な幹部を除いては)。特に地方では底抜けに親切で人なつこいロシア人たちと多く接してきました。特高警察が目を光らせていた戦前の我が国と同様、二度とあの時代に戻ってはならないと思います。

書評から大きく逸脱してしまいました。この本に政治的メッセージが込められていことはなく、また求める訳でもありませんが、折角の興味深い歴史的大事件を背景としていながら単なるバイオレンスアクションに終始してしまっていることが残念です。

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2010年3月 9日 (火)

トム・ロブ・スミス『チャイルド44 』

100308child44 何とも強烈で凄まじい内容のサスペンスミステリーでした。この作品は2008年度のCWA賞(英国推理作家協会賞)の受賞作ということで発売以来、日本でも評判になっていた作品です。作者のトム・ロブ・スミスは1979年生まれの32才、荒削りなところはあるものの、この作品がデビュー作というから驚きです。

この物語は実際にロシアで50人以上が犠牲になったという連続殺人事件(チカチーロ事件)を題材としています。この事件が起こったのは1978年から1990年の間で、犯人のチカチーロは1990年に逮捕、ソ連邦崩壊後の1992年に死刑判決を受けて処刑されています。小説では時代を40年ほど遡らせて、1954年、未だ、スターリンの粛清の嵐が止まないモスクワと中部の地方諸都市を舞台としています。そのことで、連続殺人事件を追う主人公と周辺の人々が関わるスターリン体制下での国家の病理や恐怖のシステムがこれでもかと描かれます。

ベストセラー作品であるにも関わらず、ロシアでは未だに発禁(今の時代にどれだけ意味があるかは不明ですが)となっているとのことです。すでに1956年の党大会におけるフルシチョフの秘密報告以降、スターリン体制は否定され、その粛清と恐怖政治の実態が様々の形で暴露されてきたにも拘わらず、改めてこのようなミステリー小説において、その時代の恐怖が克明かつ臨場感をもって描かれることはロシア政府にとっても決して好ましいことではないのでしょう。こうして、連続殺人事件を巡るミステリーもさることながら、恐怖政治による抑圧が一層のおぞましさをもって強調される作品となりました。

物語展開には粗さや若干の無理も見られますが(特に終盤での民衆の過剰な善意)、そのような瑕疵は問題にならないほど、作品そのものが持つ力とインパクトは強烈です。主人公とその妻の内面の描き方も丁寧な筆致で引き込まれます。この作品はすでに映画化が決定されており、続編の「グラーグ57」もすでに発売されています。どちらも見逃せません。

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2010年2月25日 (木)

第142回直木賞作品を読む

「オール讀物」3月号に第142回(2009年下半期)の直木賞作品が選評、本人エッセイ、対談等と共に掲載されていたので一読しました。今回は佐々木譲の「廃墟に乞う」と白石一文の「ほかならぬ人へ」の2作品が選ばれています。

佐々木譲はすでに多くのベストセラー作品を輩出しており、これまでの実績が敬意をもって加味された気配があります。僕もつい数ヶ月前に「武揚伝」と「帰らざる荒野」を読んだばかりでした。両作品共に彼の生地北海道を舞台にしています。今回の「廃墟に乞う」も北海道を舞台とした彼の得意分野の一つである警察官の物語です。但し、サスペンスや謎解きを主題としているのではなく、犯罪の背景やそれにまつわる人間模様を描いています。今回の受賞作「廃墟に乞う」は休職中の刑事を主人公とした6連作ですが「オール讀物」には一作品しか掲載されていません。それでも、主人公の訳有りの憂いと犯罪者の哀しみ、かつての炭鉱町のモノトーンの風景などが真っ直ぐに迫ってくる良質のエンターテイメント作品です。

ちょっと驚いたのは、受賞記念エッセイの中で作者が「文学好き高校生だった頃、周りは圧倒的に大江健三郎ファンが多かったが、私は高橋和己派だった」と書いていることでした。佐々木作品が「自己を突き詰めること」よりも「社会や他者との関係性を描いている」ことの原点を垣間見た思いです。

もう一つの受賞作、白石一文の「ほかならぬ人へ」はちょっと苦手な作品です。とても読みやすい文章なのですが、描かれる主人公の人生や日常や恋愛に興味と共感を持たねばならぬ必然性が感じられないのです。訴え方が弱いと言ってしまえばそれまでですが、こうした私小説風作品はどうも体質に合いません。

候補作の一つ、池井戸潤「鉄の骨」は談合の世界を描いた経済小説とのことでしたが、文章力と人物描写力が理由とされて受賞には至りませんでした。実はつい最近、氏の「空飛ぶタイヤ」をとても面白く読んだばかりでした。若干、ステレオタイプ的な人物の描き方という弱点はありましたが、それを遥かに陵駕する作品力は見事なものです。折しもトヨタのリコール問題がニュースになっていますが、「空飛ぶタイヤ」は2002年に発生したトラック脱輪事故による母子が死傷事件とそれに伴うリコール隠しを下敷きとしています。銀行や企業を舞台とした不正に焦点を当てる池井戸作品にはこれからも注目です。

  

下の写真は佐々木譲(左)、白石一文(右)の両受賞者。

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2009年12月23日 (水)

浅田次郎・『ハッピー・リタイアメント』

91223_2 「最高の人生とはたいそうな給料をもらい、テキトーに仕事をすることである。」という帯コピーに惹かれて購入して一気読み。「上も下もつかえているから横に出してもらった」冴えない主人公たちの「お茶を飲んだり本を読んだりしてればいい」夢のような天下り先での物語です。話が出来過ぎているという展開上の難点はありますが、天下りを揶揄したブラックな表現の連続には大いに笑えます。

プロローグによれば、この物語は浅田次郎氏がかつて実際に利用したことのある(かつ踏み倒さざるを得なかった)融資債務保証機関からの訪問を受けたことがヒントになっているようです。物語では、独立行政法人であるこの債務保証機関の不良債権回収部門が恰好の天下り先になっているという訳です。すでに時効となった債権の回収努力をするのではなく、その記録を保管することだけが天下り職員たちの「仕事」です。債権放棄と彼らの給料という税金の二重取りですよね。この舞台設定の面白さにまず笑わされます(でも、これって本当に実態なの?)。

この夏の政権交代以降、利権と結び付いた天下り構造の理不尽さがますます明らかになるにつれ、僕らの怒りは増している訳ですが、浅田次郎氏はその天下りの実態を面白おかしくデフォルメしながらも痛快に笑い飛ばします。時宜に見合った一冊といえるでしょう。

勿論、天下り役員や職員の全てがこのような環境を享受している訳ではなく、実際に独立行政法人や財団法人、社団法人等(いろいろあるなぁ)の現業で働く一般職員の勤務条件は決して恵まれているものではありませんし、ましてや民間における子会社再雇用の条件は極めて厳しいものでしょう。昨日、年末ジャンボ宝くじの売り場で長い列を作っている人々に、天下り組織の「くびき」からの脱出を願って冒険を開始したこの本の主人公たちの姿が重なって見えてしまったのは、やはり今の世相ゆえなのでしょうか。

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