2014年5月27日 (火)

フクシマ・原発被災地を訪れる

Img_7319a 地元のグループ(脱原発八千代ネットワーク)でフクシマの原発震災被災地を訪れてきました。事故後3年を経て、いまだに13万人以上の人々が避難を余儀なくされている現状を自分たちの目と耳で直接確かめてくるのが目的です。総勢23名の参加で、現地を案内していただく「原発事故の完全賠償をさせる会(原発事故被害いわき訴訟原告団)」の佐藤三男さんといわき市の四倉PAで落ち合い、市内久之浜の津波被災地、広野町、楢葉町、富岡町をめぐりました。

ちなみに現在、福島第一原発周辺の被災地域は次の3つのカテゴリーに分かれています。

(1)避難指示解除準備区域(年間20mSv以下)

(2)居住制限地域(年間20-50mSv

(3)帰還困難地域(年間50mSv以上)

このうち、(3)の帰還困難地域は道路封鎖されており入ることは出来ません。(2)は通過は自由ですが、居住は不可です。また、放射線量も高く、長時間の滞在には注意が必要です。(1)は宿泊は禁止されていますが、昼間の滞在は可能となっています。

Img_7335aさて、(2)に属する富岡駅周辺で目にしたのは、3年以上にわたって時間が止まったままの凄まじい光景でした。これらの写真は3年前の津波の直後ではなく、「今」です。これまで、女川、石巻、宮古などの三陸の津波被災地も訪れてきましたが、想像を絶する破壊の爪痕は残るものの、一方で復興の槌音が響き渡り、人々の営みもありました。しかし、ここにはそれがないのです。街や住宅地は文字通りのゴーストタウンです。津波が運んだ軽トラックが屋内に乗り上がったまま放置されています。高放射線量ゆえに撤去作業も出来ず、除染活動もこの地までは及ばず、例え、ガレキ類の撤去が行われたとしても人々は戻れません。

(3)との境界線で車は止められます。周囲の住宅地には人っ子一人見えません。通りも、家屋も、田畑も不気味に静まり返っているだけです。ちなみに付近の空間線量は1 - 2 μSv/h、地上での最大測定値は8.0μSv/hでした。

楢葉町に建つ宝鏡寺の早川住職のお話を伺いました。ここは(1)に属し、早川住職は通常は圏外の仮設住宅に住みながら、必要時に寺に戻ってきます。「現在、政府は(1)の地区の住民の帰還作業を進めようとしているが、戻る予定のあるのは約15%で、それも高齢者のみ。近いうちに町は消滅する」と仰っていました。

周囲の畑や空き地のあちこちには除染作業で生じた廃棄物(表土、枯葉等)がフレコンに詰められ、プラスチックシートに覆われたまま仮・仮保管されています。耐候性の弱いこうしたプラスチック類の寿命はせいぜい5-10年程度でしょう。こうした低レベル放射性廃棄物があちこちに放置されたままの土地に強引に帰還を促進しようという政府の政策は明らかに間違っています。「フクシマは収束しつつある」という虚偽のキャンペーンを推し進めようという思惑だけが見えます。

結局、数百年、あるいは地域によっては数千年、この町や村々が人々の元に戻ることはありません。原発事故を起こすということは、こういうことなのです。先日の福井地裁による大飯3,4号機差し止め判決の中で述べられていた「豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失である」という言葉が改めて甦ってきます。

私たちは事故前、数十年間にわたってこの東電福島原発で発電された電気を享受しながら生活してきました。そして、その代償がこれらの光景なのです。申し訳のない気持ちでいっぱいになります。今は車で「帰還困難区域」の境界線まで行くことが出来ます。皆さんにもぜひ、フクシマの今を直接目にしていただきたいと思います。

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2014年4月14日 (月)

東北周遊 その3~三陸海岸、久慈から宮古、仙台へ

下北半島を陸奥湾に沿って南下し、東北町、小川原湖畔、三沢、八戸道路、軽米を通過して久慈に至ります。折しも三陸鉄道北リアス線の全面開通が三陸海岸沿いの復興事業に弾みをつけているようでした。

翌日は天気にも恵まれ、海岸沿いを宮古まで南下します。途中、「あまちゃん」の舞台にもなったという小袖漁港にも寄りましたが、観光客相手の海女センターはスルー。番組を見ていない自分にとって特に感慨はなし。

北山崎、鵜の巣断崖などを寄り道見学しながら、震災で大被害を受けた宮古の田老地区に入ります。71 丁度2年前に、震災1年後の女川と石巻を訪れました。平地の建物は根こそぎ破壊され、湾に面した一画は廃墟と化し、あちこちに巨大なガレキの山が積み上がられていました。その時に受けた大きな衝撃は今も目に焼き付いています。それに比べると、田老地区の家々は壊滅したままですが、ガレキは片づけられ、土木工事が活発に進められています。しかしながら、聞こえてくるのは建機の音ばかりで、住民の方々の息遣いを感じることは全く出来ません。この町に人々の姿が戻ってくるのはいつになるのでしょうか?

73 町から車で30分ほど離れたグリーンピア敷地内に仮設住宅と復興商店街が建てられています。仮設住宅はひっそりと静まりかえったままです。すでに3年もの間、この仮設に暮らしている方々のことを想うと胸が痛みます。辛うじて、復興商店の皆さんの明るい笑顔が救いになります。

宮古から内陸に入り、盛岡でO君が降り、東北道を再び仙台へ。この数日間、まわってきた各地の姿とは全く異なる、繁栄した大都会の顔がここにはあります。数年に一度は訪れているので、学生時代を過ごした40数年前からの変貌ぶりにはすでに驚くことはなく、むしろ、街のあちこちに昔の面影を見つける度に嬉しくなります。今回は往路に、学生時代の仲間たちとの卒業以来の再会も果たしました。この街への思い入れはいつまでも変わりません。

こうして約1週間の東北旅行を終えました。再び、半仕事と脱原発と猫とアントラーズの日常に戻ります。

<写真>

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東北周遊 その2~下北原発街道

52_2 六ケ所村から下北半島の太平洋岸を北上するとまもなく東通村に至ります。ここにあるのが東北電力東通原発です(BWR/110KW)。幸い、過酷事故には至らなかったものの、東日本大震災時の被災原発のひとつです。被害の実態は定かでありません。現在は耐震補強工事中(といっても、今さら、原子炉本体が強化される訳ではありません)で、新規制基準への適合申請(再稼働申請)は未だなされていません。南に数キロ離れた漁村から眺める原発施設は広大な太平洋を前に如何にも無力・無防備であるように感じました(右の写真)。

むつ市から半島突端の大間に至る道路はかなり険しく、断崖が海岸線に迫っています。数キロごと、その僅かなすき間に小さな漁村がへばりついています。日本海側でしばしば見る風景ですが、真冬を想像すると自然・生活条件は遥かにに厳しそうです。すでに4月だというのに、半島の中心部の恐山方面への道路は雪のため通行止めです。いつまでも止まない強風もこの土地ならのことなのでしょうか。ようやく土地の開けた大間にたどり着くとほっとします。対岸の函館は見ることが出来ませんでした。強風にあおられる海面の飛沫のせいでしょうか。近くの大間海峡保養センターでお湯に浸かります。舐めると塩辛いナトリウム温泉でした。

大間原発は町の南の外れにあり、下の写真の通り、工事中です。進捗率は約60%とのことです。折しも43日、対岸30キロの函館市は国と事業者(電源開発)を相手取り、同原発の建設差し止め訴訟を東京地裁に起こしました。自治体による原発差し止め訴訟という画期的な出来事です。また、この大間原発の特徴は他の軽水炉と異なり、フルMOX燃料炉ということです。高速増殖炉「もんじゅ」の失敗を受けて、再処理で得られるプルトニウムを無理やり消費するための100%プルサーマルなのです。核燃サイクルの破綻の象徴がここにも現れています。大間原発を稼働させないこと(すなわち、プルトニウムの消費先を絶つこと)が六ケ所の再処理施設を動かさせないことにもなります。他の原発でのMOX燃料の消費だけでは、プルトニウムは溜まる一方となり、すでに米国等から、核セキュリティ上の強い懸念が表明されています。

六ケ所と下北をめぐるこの旅行で、核施設にたよる下北半島の現実と、核燃サイクル政策の矛盾を改めて感じ取ることが出来ました。

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東北周遊 その1~青森と六ケ所村

車で約1週間の東北周遊の旅に出かけました。主な目的は、(1)青森で開催される反核燃イベントへの参加、(2)下北半島と三陸海岸の旅、そして(3)仙台で学生時代の仲間との再会、です。同行者は学生・会社時代を通じての友人、O君です。

まずは青森です。途中、仙台、平泉、O君の地元である北上などに寄り道をしながら浅虫温泉へ。夕暮れの陸奥湾を眺めながら湯に浸かり、長距離運転の疲れを癒します。海沿いの温泉らしく臭いや癖のないお湯です。

青森市内では毎年、この時期に開催される反核燃料サイクルのイベント(学習会、屋外集会、市内デモ、交流集会)に参加してきました。先日来、六ケ所村の再処理施設等の運転差し止め訴訟原告団への技術面サポートを行っていることから、一度は現地の様子に直接触れてみたかったのです。

16_2  東京ではすでに桜が満開のこの季節、青森の屋外集会とデモでは時折横殴りの雪に見舞われました。この旅行中は寒波と強風に、青森や下北で真冬の厳しさが想像されることも度々でした。その寒空の下での行進の先頭は、都内の脱原発集会・デモでもすっかりお馴染みの「制服向上委員会」のメンバーたちです(写真)。今回、知ったのですが、この制服向上委員会は1992年発足の老舗アイドルユニットなのですね。4人組のチームに分かれて各地の脱原発や護憲の市民イベントに登場する稀有な存在です。

翌日は六ケ所村再処理工場正門前での集会イベントでした。写真のように屈強なガードマンが私たちを見守っています。後ろの建物内では、完成後は、2 x 1020ベクレルもの放射性物質を常時取り扱うことになります。もし事故が起こった場合の被害はフクシマの比ではありませんし、保有プルトニウムだけが増えていくという核エキュリティ上の問題も深刻です。そもそも核燃料サイクル政策そのものが破たんしているのに、竣工だけが自己目的化しています。経産省、電力業界も本音では「やりたくない」核燃サイクルはただちに中止すべきです。31

 日本原燃のPRセンターを覗いてから周囲をめぐります。この地域は、かつて1960年代末に「むつ小川原開発計画」として石化コンビナートや製鉄所を主体とする大規模臨界工業地帯として計画されましたが、2度のオイルショックを経て見事に頓挫しました。核燃サイクル設備計画が持ち上がったのはその後の1980年代です。今でも、周囲は原野に覆われており、突如、石油備蓄タンク群と核燃サイクル設備の建物が視界に出現する違和感。「かくして、放射性廃棄物処理施設(核のゴミ捨て場)だけが残った」この地域に未来はあるのでしょうか?深刻な地域汚染に晒される本格操業前の今だけが、引き返すことの出来る唯一のチャンスだと思います。

六ケ所村を後にして、次は下北半島を北に向かいます。

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2012年11月 2日 (金)

秋風景 @奥日光戦場ヶ原

季節を感じる余裕のない日々が続いていました。気が付いたら、最も好きな秋が巡ってきていました。 で、「そうだ、紅葉を見に行こう!」と、最もベタな奥日光に出かけてきました。先週のことです。

写真は戦場ヶ原。真赤なモミジも風情がありますが、このような、空気の美味しさを感じることの出来る風景が良いですね。カラマツは、「落葉松」とも書くことも知りました。

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2011年10月18日 (火)

真紅の丘@ひたち海浜公園

111017cochia 丘一面を真紅に染めているものが何ものかをご存知でしょうか?

これは茨城県の国立ひたち海浜公園で見ごろを迎えているコキア群生の紅葉です。空の青さ、麓のコスモスと共に見事な秋の風景を造りだしています。

コキアというのはこれまで馴染みはありませんでしたが、別名ホウキ草と呼ばれる一年草とのことです。そういえば道端などでもたまに見かけることはありますが、ここまで大規模に植栽され、それが一斉に紅葉する姿は圧巻です。

公園には平日だというのに年配者や家族連れを中心に多くの人々が訪れていました。15千平方メートルの敷地に約3万本のコキアが植えられていて、勿論日本一の規模とのことです。見ごろは週末頃までとのことです。良いものを見ました。

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2011年9月 9日 (金)

新潟~柏崎~安曇野

110909 前回の書き込みから1ケ月も遠ざかってしまいました。この間、反原発関連で結構忙しかったのです。加えて、TVでのなでしこ応援(^^;)。どちらも「にわか」と言われてしまうと反論の余地はありませんが、かつて70年代には「技術と人間」で高木仁三郎氏(学習会に招聘したこともありました)や武谷三男氏の著作を読んだものです。数十年にわたる原発への慣れと諦め、実質的な容認が3月11日をもって打ち砕かれました。「なでしこ」については勿論アントラーズには及びませんが、男子A代表よりは遥かに応援のし甲斐があるというものです。

先日は新潟に行ってきました。「柏崎刈羽原発の閉鎖を訴える科学者・技術者の会」と現地の運動との合同合宿会でした。2日間にわたって柏崎刈羽の現状(何と7基もの原発が密集配置され、2基が稼働中)、福島事故の真の原因追究、行われようとしているストレステストの問題点等々について真剣な報告と議論が行われました。反原発の著作で活躍されている石橋克彦氏(地震学)、田中三彦氏、井野博満氏、山口幸夫らも参加し、稔り多い議論が交わされました。とりわけ、当局が想定外の津波のせいにしようとしている電源喪失とそれに続く炉心溶融のシナリオに対して、地震の際の配管破損と冷却材喪失(LOCA)によって炉心溶融が起こったという事実が明らかになりつつあります。このことは、各地の原発の耐震設計基準の見直しにより再開がおぼつかなくなってしまうことを恐れる当局の見解と真っ向から対立するものです。事実の究明こそが、いかなるストレステストよりも優先されるべきことの筈です。

さて、帰路は柏崎原発の脇を抜けてきました。丘陵と林に囲まれて施設全体を一望することは出来ませんでしたが写真のように海岸線から東側の一部を見ることが出来ます。沖合に巡視船が監視を続けている姿に、ここは日本海側であることの緊張を感じました。周囲は平和な田園地帯です。これが、福島のような事故がいったん起こるとまさに「死のまち」と化してしまうのです。鉢呂経産相の発言が問題となっていますが、非難は筋違いであり、撤回も謝罪も必要ありません。福島原発の周辺市町村は文字通り「死のまち」となりました。そうさせた東電と保安院、認可した当局、御用学者などこそが謝罪すべきなのです。

更に車で信州安曇野を経由してきました。前にこのブログでも紹介した「大竹工房」があり、ぜひ一度訪ねてみたかったのです。木工所見学と大竹夫妻との楽しい歓談に心を癒されて帰路につきました。

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2010年11月24日 (水)

今年も白鳥の季節 @本埜村

1011241_2 はるばるシベリアから飛来した白鳥の群れが今年も本埜村の田園の一区画で冬を越そうとしています。1992年以来とのことですから、すでに19年目になります。北総の冬の風物詩のひとつとしてすっかり定着した感がありますが、地元の皆さんの弛まぬご苦労と努力があってこそのことです(詳細は過去記事参照)。

白鳥の寿命は約15年とのことですから、すでに2世、3世の時代になっているのでしょう。群れに混じっている灰色の白鳥はその年に生まれた子供とのことです。日本各地に散らばる白鳥飛来地の中では最も規模の小さい溜まり場の一つでしょうが、ここで過ごし慣れた白鳥家族たちにとってはかけがえのないない安住の地なのでしょうね。

今日の昼間は200羽ほどがのんびりと羽根を休めていましたが、暮までにはどのくらい集まるのでしょうか?数年前は1300羽にも達し、夕方の餌付けの際の賑やかさや、離着陸を繰り返す空中ショーはとても見応えがありました。今年もちょくちょく覗きにいってみることにします。

過去記事

20081120日 「今年も白鳥飛来@本埜村」

2007129日 「本埜村に白鳥がやってきた」

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2010年11月17日 (水)

房総半島の遅い秋

101116 小春日和に誘われて、久留里城、亀山湖、養老渓谷と房総半島の内陸部を巡ってきました。紅葉前線はやっとこれらの名所を僅かに染め始めたというところです(1116日現在)。しかし、私は鮮やかなモミジの朱色よりも、むしろ黄色や橙色が入り混じった絨毯のような淡い景色の方が好みですね。街を歩いていても、イチョウやユリノキ並木の黄色、カエデやブナの落葉色に妙に気持ちが落ち着く季節です。あ、銀色の穂が鈍く輝くススキの群生もいいですね。日本ならではの秋風景です。

 

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2010年6月22日 (火)

紫陽花と菖蒲 @本土寺

100622 北総花の風物詩シリーズ(?)の5回目は「あじさい寺」として名高い名刹の本土寺(松戸市)です。これまで紹介してきた印旛沼チューリップ吉高の一本桜京成バラ園佐倉のラベンダーに比べると規模的にも歴史的にも准メジャー級といえるでしょう。今、境内には一万株の紫陽花と五千株の花菖蒲が見事に咲き誇っています。

世にアジサイの名所は多く、この季節は各地の「あじさい寺」や「あじさい園」だけでなく道端に並ぶ「あじさい街道」の景観もあちこちに見られます。家々の垣根からはみ出たアジサイにも見事なものが多く、ウォーキング時の楽しみが増えています。派手さを抑えた色彩で今のような梅雨空につつましく映える姿がいいですね。しかし、ガクアジサイの場合、花びらに見える部分は装飾で本来の花弁は中心部に目立たないように潜んでいること(セイヨウアジサイは全てが装飾と)、色彩が微妙に変化すること、実は強い毒性も持つこと、などからどうやら一筋縄ではいかない存在のようです。

本土寺は花菖蒲池も見事です。アジサイ同様に抑えた寒色系の色彩が梅雨空に合います。厳密には菖蒲、アヤメ、カキツバタとは微妙に異なるとのことですが(違いはココ)、細かいことを気にするのはやめましょう。

本土寺はこれまで梅雨の季節に訪れていましたが、青々としたモミジの葉が境内の建物によく似合っていました。次回は紅葉の季節に訪れてみましょう。

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