2013年1月26日 (土)

実に残念で悲しいアルジェリア事件

Imagesca7tfhjj 日揮(株)のプラントサイトが襲われ、外国人スタッフを含め、16名が死亡、1名がいまだに行方不明とのことです(125日現在)。同じプラント建設業界に身を置くものとして、また、かつて一年半にわたってアルジェリアの建設サイトに滞在したものとして他人事ではありません。

宿舎への襲撃は早朝の540分頃であったとのことです。朝の早い建設現場では、第一陣が朝食を終えて、バスに乗り込む頃です。遅い組は洗面と着替えを終え、そろそろ食堂に向かおうとしていた時間だったのでしょう。そこが最初に運命を分けたように思えます。部屋内に潜んだまま留まることのできた人は幸運でした。

プラント建設会社は、建設現場の工事安全のみならず、通常、治安への対策も怠りません。民間のセキュリティ会社との契約のみならず、アルジェリアのような特別の配慮の必要なサイトは軍が駐留することもしばしばです。戦争や内乱の勃発による国外脱出劇も珍しいことではありません(イラン・イラク戦争勃発時など)。私がウズベキスタンに滞在していた時には9.11の報復として、多国籍軍のアフガン攻撃が始まり(2001年)、いざという時の数百名規模の脱出計画を策定しました。すなわち、アフガンとは逆方向のカザフ国境に向けた交通手段の確保とカザフビザの手配です。幸い、発動に至ることはありませんでしたが、危機管理は海外サイト運営の基本の一つです。今回、事件に遭った日揮は、日本の企業の中では最も危機管理意識の強かった企業であったと思います。それでも、今回のような意図的な大規模攻撃は避けようがありません。

私が石油化学プラントの建設でアルジェリアに滞在していたのは1978-1979年にかけてですから、随分と昔になります。まだ独立の気概に溢れ、治安も良く、人々は実に友好的でした。スキクダという、地中海に面した街で、当時から砂漠の奥に建設地を抱えていた日揮とは環境も大きく異なりました。

その後、イスラム原理主義の台頭と、軍政権の発足により治安は一挙に悪化し、殆どの日本企業は撤退しましたが、日揮だけは残り、受注を継続していました。この10年ほどは、ようやく治安の改善もみられ、日本企業による肥料工場や高速道路建設のプロジェクトも新たに開始されていました。

一方で、米国を中心とした多国籍軍によるアフガンやイラクでの力での抑え込みは結局、アルカイダをはじめとする原理主義勢力の拡散という結果だけをもたらしたように思えます。いまや、世界のどこにでも大規模テロが起こってもおかしくありませんし、事実、ロンドン、モスクワ、バリ、ムンバイ、新疆と、宗教や民族の矛盾を抱えるあらゆる場所でテロ事件は起こっています。今回は、マリへの仏軍の介入が切っ掛けと言われています。しかし、襲撃への準備期間を考えると、かなり以前から周到に計画されていたようです(無差別か身代金目的かは分かりませんが)。

日本人に対する見方も変わってきたように感じます。12年前にイラクで人質になった高遠菜穂子さんや安田純平さんの場合は、彼らのイラクの人々への想いも含めて「日本人」であったことが一定程度安全側に働いたように思えます(身代金の件は不明ですが)。しかし、今回の事件では、そのような配慮は全くありませんでした。日本は米国を中心とした多国籍軍の一翼とみなされているのでは思われます。政府の「罪のない技術者が犠牲になった」という言いかたには抵抗を感じます。ひょっとして「罪を作っている」のは集団的自衛権の行使をめざしながら、ますます米国への追従を強めようとしている日本国政府なのではないでしょうか。

テロの根絶に軍事力の報復が全く逆効果になることは、パレスチナ、アフガン、イラク等々、多くの地域で学んでいる筈です。私たちはもっと賢くなる必要があるのではないでしょうか。

今回の事件の犠牲者とそのご家族、同僚の方々に心からの哀悼の意を奉げたいと思います。

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2012年6月 6日 (水)

タシケントは夏盛り

120531tas 2年半ぶりにウズベキスタンのタシケントの街を訪れました。気温は30℃を超え、すでに真夏のシーズンに入ろうとしています。しかし、中央アジア特有の湿度の低さにより木陰や建物内で不快な暑さを感じることは殆どありません。

通りには洒落た商店やレストランが更に増えました。人々の表情は明るく、行動は活気に満ちています。あちこちで新築工事が行われ、大通りには新車が行き交います。十数年間にわたってこの国を眺めてきましたが、着実な発展を遂げているようです。

悠久の歴史と共に歩んできた国だけに、変わらない部分も多々あります。そんな場面を見つけた時に、むしろほっと安心する自分がいます。

今回、驚いたことの一つは、国内幹線(サマルカンド、ブハラ、フェルガナ等々)が全てエアバスあるいはボーイングの機材に替わっていたことでした。かつて散々お世話になった、AN24AN36YK40TU134等はタシケント空港から全く姿を消していました。タシケント空港には国内専用ターミナルも新設されていました。この国はメリハリをつけたインフラ投資に力を注いでいるようです。こうして、ロシア、韓国、トルコ、マレーシア、中国、等々、周辺国の資本や人々がますます流入し、国際化が進んでいます。日本の企業は経済リスクを恐れ、相変わらず二の足を踏んでいるようです。

友人たちは再会を喜んでくれました。今はfacebookで簡単に繋がる世界だけに、長いブランクをあまり感じさせません。ウズベキスタンでもfacebookは流行していて、かつての友人やスタッフたちがいつまでも身近にいる感じです。次は、山々と緑に囲まれた、懐かしのフェルガナ地方を訪れてみたいと思っています。

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2011年4月20日 (水)

モスクワ雑感

110420dosimeter10日間のモスクワ出張も終わろうとしています。そこで、とりとめのない雑談をいくつか・・・。

市内のとある電気屋で超小型の放射線計(Dosimeter)を購入しました。数値を見ると、何と現在の東京の約2倍の0.15 – 0.25 μSV/hを示します。早速、ロシア人に尋ねたところ、モスクワ市内には7か所の研究用小型炉があるので放射線濃度が高いのだということです。また地下鉄やビルで大量に使われる大理石からも微量の放射線が発散されるとのことです。ホントかなと思い、地下鉄の構内入口で測ってみましたが数値は増えません。ネット検索によると、大理石は放射能を発するようですが、検知できるほどの強さではないようです。次は帰りの機内での測定です。おそらく数倍に跳ね上がるでしょう。

地下鉄といえば、いつの間にかトークンが消えて電子カードになっていました。窓口で何回分かのお金を払い、それが磁気テープに記載されるのです。いっそのこと、PASMOが使えるようになると便利なのですが・・・(^^;)。車内では現在地がドアの上に電子表示されていました。かつては、社内アナウンスを聞き逃すまいと必死に耳をそば立てていましたが、今は乗り過ごしの心配はなくなりました。

市内の渋滞はますます酷くなっています。10段階の渋滞情報なるものが出るらしく、レベル3ではスムースな流れでしたが、レベル7になると環状線も抜け道も殆ど動かなくなります。打合せの場合は約束時間のかなり前に出発せねばならず無駄な時間が増えます。ガソリン消費量も増え、環境も悪化します。実際には地下鉄のほうが便利なのに、単にステータス誇示のために車通勤をする中間層が増えているとのことです(その一人が白状しました)。解決のためには、まずは道路脇の、場所によっては片側2列にも及ぶ縦列駐車を違反として一掃するべきでしょう。駐車場の新設との案もあるそうですが、流入する車が増えて逆効果になるだけです。停める場所を少なくするのが一番でしょう。

高級店からチェーン店まで日本食レストランがやたらと乱立しています。多くのファストフード店や街角のカフェでもメニューに「巻きずし」があります。どうやら健康食として大モテのようです。チェーン店や非専門店では米が固めでお世辞にも美味しいとはいえませんが、日本人シェフのいる専門レストランではリーズナブルな値段で美味しい日本食を楽しむことが出来ます。「青空」、「夢」といった居酒屋風の人気レストランは日本人駐在員やロシア人たちでいつも賑わっていました。今回は他にもウズベク料理店やベトナム料理店を訪れてかなりグルメな出張となりました。

久々にチャイコフスキーホールに足を運びました。ウラジミール・スリバコク指揮のロシア・ナショナル管弦楽団をバックにエカテリーナ・スーリナ(S)が歌うモーツァルトとイタリア・ベルカントからのオペラアリア・コンサートでした。チャイコフスキー・コンクールの本選会場としてもお馴染みのこのホールの白を基調とした内装はとても気品があります。アンコールのマスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナからの間奏曲」の美しい響きがまだ耳に残っています。

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2011年3月15日 (火)

モスクワから憂う

被災地の惨状に後ろ髪をひかれながら日曜日に仕事でモスクワに移動しました。インターネットやCNNを通じてリアルタイムに入ってくるその後のニュースには心が痛むばかりです。加えて福島原発の深刻な現状に心配が募ります。ロシア人からは犠牲者へのお悔やみの言葉をもらう一方で「何故、津波の被害がここまで大きくなったのか?」という疑問が呈されています。津波の予想を超える高さとスピードに加え、昨今、度々発せられる警報や避難勧告への「慣れ」と「軽視」が被害を大きくしてしまったのだろうと答えています。

原発についてはチェルノブイリの経験を持つ彼らにとっても大きな関心事です。チェルノブイリでは当局によって情報が意図的に隠されたことが住民被害を大きくしたとのことです。旧ソ連と比較することは無意味としても、正確な情報の公開と早目の対策こそが無用な不信感を冗長させないための最良の手段です。原発周辺の測定値の単位がマイクロからミリになり、関東地方では自然界値と比較した放射線濃度が上昇しているとのニュースに事態の深刻さが伺えます。

こちらに来てから数時間毎に体感していた余震と無縁になり妙な感覚を味わっています。日本列島という地盤の脆弱さは際立っていることを改めて実感しています。

モスクワの街は3年前の前回訪問時からいっそうの変貌を遂げていました。ビジネス地区には高層ビルが立ち並び、空港から中心街に至る大通りの両側にはIKEYAをはじめとする新設された巨大ショッピングモールが立ち並び、中心街はネオンとライトアップの光に溢れています。灯りの消える昼間にようやく街並みはかっての面影や趣きを取り戻すようです。

東京でも輪番停電に併せて、まずは街からネオンを消しましょう。

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2009年10月11日 (日)

タシケントのランチ

91007prof 1週間ほどタシケントに出かけてきました。もう10月だというのに25度を越える暖かさが続いていました。異常気象は世界各地で確実に増加しているようです。

写真は昼食に出かけたプロフセンターです。アミール・チムール大通りを北に向かい、TV塔を超えた左側にあります(約2年前にここに移りました)。タシケントの隠れたB級名所の一つではないでしょうか?昼食時には写真のように大広間のテーブルが2階席も含めて満杯になります。

ところで、プロフというのは、そう、「炊き込みご飯」です。「ピラフ」と同一の語源なのでしょう。羊肉と野菜を大鍋で炒めて、炊きあげます。前にも紹介したウズベクの人々が愛する伝統料理です。お出かけの際にはぜひお試し下さい。

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2009年8月14日 (金)

続・バンコックより

スクンビット通りには高層ビルの間を縫うようにBTSスカイトレインとかいう高架鉄道が走っていました。なかなか洒落た車体です。もう10年も前から運営されているのですね。空港への延伸ラインは試運転中とのことです。大通りには、いかにも住民といったいでたちの欧米人たちがやけに目立ちます。物価の安さに惹かれてそのまま住み着いたのだろうか?それにしても、この蒸し暑さはたまらない・・・。

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バンコックより

手ぶれで見難いのですが、携帯で撮ったバンコックの夜景です(ひどい写真・・・)。

久々に訪れたバンコックは空港も新しくなり、人々の活気はそのままに、いっそうの近代的な大都市となっていました。スクンビットのオフィス街には高層ビルが立ち並んでいます。昨夕に到着し、明日は帰国のとんぼ返り訪問です。

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2009年4月28日 (火)

アルジェリア – 今を旅する、昔を旅する

先日(4/25)、表題の講演会が上智大学で開催されたので聞きに行ってきました。主催は上智大学アジア文化研究所から4/30に出される「アルジェリアを知るための62章」(明石書店)の出版記念を兼ねたものです。大学の教室での講義形式など実に久しぶりなので新鮮な気分になりました。

内容は、アルジェリアの歴史、文化の専門家とアルジェリアでの生活体験者による講義とパネルディスカッションです。具体的には以下の題目で各講師とパネラーによるプレゼンテーションがありました。

「古代史の謎を解き明かす―クレオパトラの娘セレーネの墓」

「ナショナリストの肖像―民族運動を創った3人」

「中世史の不在―歴史教育の問題を考える」

「映画と絵画を旅する―アルジェリアの光と影」

「アルジェリアと日本―汗、涙、笑顔の交流の架け橋」

とてもバラエティに富み、かつ分かり易い内容でした。特に、この国ではローマ帝国支配以降の中世の歴史が欠如していることにより、民族のアイデンティティ形成をほとんど解放運動にのみ求めていることが政治的不安定の一因ではないかという指摘は興味深いものでした。その解放の歴史に関しては、フランスとの交戦状態前夜の民族運動に焦点が当てられており、やはり興味を惹かれました。様々な潮流が存在し、やがてFLN(民族開放戦線)へと統一されていきます。2か月前に観たばかりの映画「命の戦場」でのアルジェリア人たちの葛藤を描いた諸シーンが甦ります。

1970年以降、プラント建設等でアルジェリアに長期滞在された皆さんによる企業活動と現地交流、生活の紹介もありました。私自身も1978-9にかけてその一人として地中海に面したスキクダの町(下の写真)に滞在していたので懐かしさと共に大いに共感を覚えました。

その後、アルジェリアは長く暗いテロの時代を経て、今ようやく、資源開発や観光面で再び脚光を浴びようとしています。国内テロの消滅と一層の開放、日本との友好を願いつつ、単なるノスタルジーに終わらないこの国への関心と興味を継続していきたいと思っています。

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2009年3月15日 (日)

ロシア正教会@タシケント

90315 日曜日の午前中、ふと思い立って市内のロシア正教会に出かけてみました。イスラム国にも拘らず多くの信者が訪れています。ロシア系のみならず、タタール系、ウズベク系と思われる人々も少なくありません。教会を維持するにあたってソ連邦国家との、そしてイスラムとの軋轢は決して小さなものではなかったと想像しますが、今、ここで目にするのはとてものどかで平和な光景です。

ミサの間は全く出入りが自由です。好きな時に来て祈り、好きな時に帰るというのがロシア正教の(あるいはここの)流儀なのでしょうか? 礼拝は立ったまま行います。この点がプロテスタントやカトリックと異なります。女性たちはスカーフで髪を覆っています。東方教会とイスラムとの共通点が何かあるのでしょうか? 賛美歌は祭壇脇の合唱団によってアカペラで歌われます。教会独特の残響が荘厳な音響効果を与えます。祭壇や側壁には多くのイコンや宗教画が架けられており、それらに向かって信者たちが十字を切りながら敬虔な祈りを奉げています。

屋外ではベンチの周りで人々が歓談したり、早春の柔らかい風に吹かれながら思い思いに寛いでいます。子供連れの家族も多く賑やかです。恐らく日曜日毎の交流が楽しみなのでしょう。かつてソ連時代にモスクワやシベリア地区で幾つかの教会を訪れたことがありますが、辛うじて年配者たちによって教会が守られているという印象でした。時代が異なるとはいえ、ここタシケントではとても開放的な雰囲気を感じました。教会を一歩出ると、そこはイスラム色に満ちた大通りです。この平和的な調和がいつまでも続くことを願うばかりです。

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2009年3月 9日 (月)

タシケントの桜

90308tashkent 再びウズベキスタンに来ています。タシケントの大通り沿いの桜が7分咲きとなりました。東京より2週間くらい早いでしょうか。こちらの桜は形と色はソメイヨシノに似ていますがちょっと小ぶりです。今年は花見が2回出来るぞ。

(3/15追記)

こちらの人によると、この木は桜ではなく李(スモモ)だ、杏(あんず)だ、いやサクランボだといろいろな説が出ます。確かに、満開になってみると、花びらの密集具合がモモに近いような感じも受けます。でも、何の実もなる気配がありません。やっぱり桜?

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