2016年11月17日 (木)

『トリスタンとイゾルデ』@METライブビューイング

Trist_2662a6_2メトロポリタン・ライブビューイングの2016-2017シーズンが始まりました。このシリーズを観始めたのが2007-2008年のシーズンですからすでに9年目に入っています。最初の作品は「ヘンゼルとグレーテル」で、当時はレビュー記事を本ブログに真面目に毎回アップロードしていました(^^;)。いまでも毎年数本は見ているのですが、ブログへの投稿はすっかりさぼっています。

  さて、「トリスタンとイゾルデ」は中世騎士物語、冗長、メリハリ不足といった勝手な先入観でこれまで避けてきた作品でした。しかし、MET LVの指輪シリーズ全4作を飽くことなく、アンコール上映を含め3サイクルも通ってしまったことでワーグナーアレルギーからは自由になり、今回の上映はこの作品への挑戦の絶好の機会となりました。そして結果として、音楽、舞台映像ともに期待通りの素晴らしさで約5時間にわたる実に濃密な音楽時間を楽しむことが出来ました。

 イゾルデのニーナ・ステンメ(S)は昨シーズンの最後を飾ったR・シュトラウス「エレクトラ」でも素晴らしい歌唱と演技を披露してくれたばかりでした。それ以前は映像でのブリュンヒルデ(スカラ座、2010年、2012年)への違和感(歌唱は立派でも直立不動、衣装の不似合い、表情の怖さ(^^;))のせいか、決して好みの歌手ではありませんでしたが、「エレクトラ」での印象は一変しました。彼女には現代風演出であることに加えて、ドラマチックソプラノの奥深さを味わせてくれる、密室劇が似合うのかもしれません。いずれにせよ、ステンメによる、エレクトラ、イゾルデの初体験がこれらの作品への共感を思いっきり深めてくれました。

指揮のS・ラトルはMETライブビューイングでは初登場でしょうか?圧倒的な音の洪水になりがちなオーケストラを抑制的に美しく鳴らしていました。インタビューで、「出演者たちが、自分のアピールではなく、一体感のある舞台を創ることに集中していた」と発言していたように、あくまでも観客の立場に立ち、音楽の持つ魅力自身に語らせることを優先していたように思えました。

M・トレリンスキによる演出は上述したように、現代に置き換えていますが、密室劇のため全く違和感はありません。観る者にとっては、媚薬によって人格が一変してしまうという「おとぎ話」要素は無視して、ただひたすらに、「愛と死」だけに魅せられた男女の濃密な音楽劇に浸ればよいだけなのです。その意味で、元々は映像作家というトリレンスキの美しく幻想的な場面を含む現代風の舞台美術はこの作品にぴったりでした。常に海の香りを漂わせる映像も、アイルランドと英コーンウォール地方を結ぶ海峡を舞台とした物語のリアリティを増すことに貢献していました。

これで「トリスタンとイゾルデ」への苦手という先入観は払拭することは出来ましたが、ワグネリアンの世界はまだまだ遠いままです。さて、9年目に入ったライブビューイングの演目も繰り返しが多くなってきました。今シーズンで目を惹く作品は「ナブッコ(雄渾な音楽)」、「エフゲニー・オネーギン(未見)」、「ばらの騎士(ガランチャ出演)」といったところでしょうか。あ、来夏のアンコール上映での「トリスタンとイゾルデ」は必見・必聴となるでしょう。

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2014年6月 1日 (日)

『コジ・ファン・トゥッテ』@METライブビューイング

D0240098_09553116 モーツァルトの最も愛すべき作品、「コジ・ファン・トゥッテ」をMETライブビューイング(LV)で観てきました(530日)。本ブログのタイトルをこの作品名から拝借しているのも、単なる駄洒落を超えた強い思い入れがあるからこそです。音楽は全編を通じて美しく、軽妙で、機智に溢れています。ストーリーの解釈や是非については様々な意見もありますが、登場人物たちの想いや心模様、息遣い、更には心変わりの瞬間などがここまで音楽として表現されていることはまさに奇跡としか言いようがありません。このMETにおけるLV映像も、音楽と舞台を十分に楽しめるものでした。

レスリー・ケーニッヒによる演出は現代的な読み替えを排したオーソドックスなもので好印象です。背景、舞台美術、衣装に奇をてらうこともなく、安心して物語と音楽に浸ることが出来ます。登場人物たちの所作は、あちこちで笑いをとるツボとともに十分に計算されています。アンサンブルオペラに相応しい若い4人(デスピーナを含めれば5人)の動きもとても軽妙です。こうして、演出はナポリを舞台にした令嬢物語よろしくヨーロッパ風なのですが、私たちが劇場で目と耳にする舞台は実にアメリカンなテイストに溢れていました。

そもそもニューヨークMETであることからして当然ともいえることなのですが、まず、音楽が実に立派です。序曲が演奏される際の映像は指揮者のジェームズ・レヴァインのにこやかな表情が大写しになっていました。先日の「ファルスタッフ」もそうでしたが、長い療養生活からの復帰公演ということもあるのでしょうか、オケは実に活き活きとよく鳴っていました。ちなみに、個人的には、モーツァルトの作品はぜい肉を取り払い、音の引き締まった古楽器オケが好みです。「コジ」ではたとえば、ガードナー指揮のパリシャトレ座の映像盤(1995)などがオケの演奏、出演者たちの演技、歌唱ともに理想的ですね。

この作品はアンサンブルこそが命だけに、出演者たちには際だった個性よりも、均等な歌唱や演技の水準、更にはLVを前提とした容姿が求められます。その意味でもアメリカ出身の若い歌手たちが中心としたキャスティングによる舞台カラーが強く出ているようです。

フィオルディリージのスザンナ・フィリップスはつい2週間前の「ラ・ボエーム」のLVで魅力的なムゼッタを見せ、聴かせてくれたばかりです。美しい声と豊かな表情、いかにも陽気な性格をもった新進の美人ソプラノです。すでにMETのファンからは大きな支持を受けており、日本にも多くのファンが存在するようです。もう少し体型を絞ってもらえれば、スターへの道は約束されたようなものでしょう。

ドラベッラのイザベル・レナードもNY出身の若手メゾソプラノです。軽薄なドラベッラ役としては若干、知的雰囲気が勝ち過ぎているような印象を受けました。世間知らずのお嬢様姉妹とバカな男たちが織り成すブラック・ラブコメを演じるには、主演者たちの側にもそれに見合った素材が必要なのでしょう。デスピーナのダニエル・ドゥ・ニースはすでに多くの映像作品でもおなじみですが、アクの強さが、しばしば姉妹の個性を凌駕してしまいます。

フェルランドのM・ポレンザーニ(T)、グリエルモのR・ポゴソフ(Br)はともにアンサンブルの一員として溶け込んでいましたが、上映劇場の音響の悪さゆえに、テノール音声が割れんばかりとなります。この作品に限ったことではないのですが、劇映画と異なり、MET LV上映にあたって、音量はもう少し絞ってもらいたいものです。

さて、これまで、本ブログの過去記事でも幾つかのコジの映像盤を紹介してきました。

エクサン・プロバンス音楽祭(シェロー演出

http://kawai0925.cocolog-nifty.com/yasu47/2007/03/post_515b.html

グラインドボーン音楽祭(ハイトナー演出)

http://kawai0925.cocolog-nifty.com/yasu47/2007/02/post_13df.html

ザルツブルグ音楽祭(ヘルマン演出)

http://kawai0925.cocolog-nifty.com/yasu47/2007/01/post_caa4.html

上述しましたが、この作品には高層ビル内や空港、キャンプ場といった突飛ともいえる場所に移し替えた現代読み替えは似合いません。演出者による独りよがりな解釈もモーツァルトの音楽には邪魔なだけです。その意味でも、上述したガードナー指揮のパリシャトレ座の映像盤(1995)は理想的ともいえますし、このMET版も、オケ構成を除いては、基本的には類似した演出内容でとても好感がもてました。いずれ、映像盤が市販されたらぜひ見直してみたいと思います。

Threechicks

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2014年3月26日 (水)

コルンゴルド『死の都』 @新国立劇場

05_aek7368 この作品については、以前に映像盤を紹介しています。それ以来、いつかはと心待ちにしていた実演での鑑賞がやっと果たされました(324日の最終公演日)。期待通り、音楽と舞台の美しさにたっぷりと浸ることができ、深い感動を味わうことができました。まさに至福のひと時でした。

この作品が甘美な旋律と豊かな音量に溢れていることはすでに周知の通りですが、一方で、20世紀オペラ作品としては、後期ロマン派音楽の残り香があまりにも強いゆえに一部のクラシックファンからは低い評価も受けていたようです。実際に、作曲者コルンゴルド自身の米国亡命後は、長い期間にわたって忘れ去られていました。しかしながら、最近のヨーロッパや日本における上演頻度の多さや複数映像盤の入手が可能になったことなどで、コルンゴルド本人の業績とともに改めてこの作品の素晴らしさが見直され、すっかり復権を果たしたようです。

私がこの作品に入れ込むきっかけとなったのは、ストラスブール劇場による舞台映像盤によってです。以来、CD全曲盤(E・ラインスドルフ指揮、ミュンヘン・フィル)を何度も聴き込み、他の映像盤(下述)を視聴し、さらには下敷きとなったローテンバックの「死都ブリュージュ」(岩波文庫)も取り寄せました。小説も実に面白く、オペラ台本用にコルンゴルド親子が書いた、いわゆる「夢オチ」の結末ではなく、亡き妻にそっくりの奔放な踊り子に身を滅ぼす主人公の一直線の破滅物語です。この小説の書かれた世紀末の匂いが濃厚で、趣のある多くの挿絵(写真)により、物語のもう一つの主人公ともいえるブリュージュの街のイメージが深まります。

舞台の感想に戻ります。カスパー・ホルテンによる演出は、亡き妻マリーを実際に登場させることによって心理的な効果を高めています。亡き妻マリーを視認できるのはパウロと観客(そして最終幕でのマリエッタ)だけです。そのことによって観客は、踊り子マリエッタと亡妻マリー、すなわち、生きる者と死者、現実と幻影、奔放と貞淑、肉体と精神の間で揺れ動く主人公パウロの内側から物語の進行を眺めることが出来るのです。

パウル役のT・ケール(T)はストラスブール盤での印象が強く、今回の演出でも、マリーとマリエッタとの間で、ますます精神を病んでいく主人公の脆さと弱さが強調されます。

M・ミラー(S)は、いかにもアメリカンテイストなソプラノで、勝気と奔放さが勝るマリエッタ役にピッタリです(マリーとの体型の違いは無視(^^;))。第三幕でマリエッタが、どん底の社会から這い上がってきて今を生きていることを朗々と歌い上げる場面は、私の大好きなハイライト場面のひとつです。

賑やかな劇団仲間たちも、歌唱のみならず、その衣装も含めて楽しませてくれます。「ピエロの歌」で女声のヴォーカリーズが入る箇所は、度々現れる「リュートの歌」のメロディと共に、その甘美な旋律に心を奪われます。

続けて何度でも見たい!聴きたい!と思わせるオペラ作品は数多くありますが、私の中で、この「死の都」はそれらの中でも、R・シュトラウスの諸作品と共に筆頭にくる作品のひとつなのです。

さて、現在、市販されているDVDは以下の3本です。オーケストラの鳴り具合、出演者の歌唱・演技共に申し分なく、いずれもこの作品の素晴らしさと面白さを教えてくれます。

ストラスブール・ライン国立歌劇場(2002年)、T・ケール、A・デノケ

パウルを演じるのは、今回の新国立劇場と同じ、T・ケールです。とても伸びのあるヘルデンテノールです。主人公の精神的に行き詰った狂気ぶりが強調されていますが、舞台演出の斬新さと相俟って、強烈な印象を与えてくれます。

ドイツベルリンオペラ(1983年)、J・キング、K・アームストロング

オーソドックスな演出なので、物語を容易に理解することが出来ます。原作(ローデンバック)の雰囲気も良く残しています。マリエッタ役のK・アームストロングの優れた容姿と演技により、物語そのものへの感情移入も容易です。

フィンランド・国立オペラ(2010年)、KF・フォークト、K・ニールンド

今回の新国立と同一の演出です。上述したように、亡くなったマリーを常に舞台上に登場させることで物語性を強めています。パウル役のKF・フォークトは人気急上昇中の新進テノールです。狂気にまで至ることはなく、夢から覚めた後は、むしろ爽やかともいえる印象を残します。

ということで、演出によって三者三様のラストを迎えます。今回の新国立もカメラが回っていました。BS放送で放映される日も近いでしょう。お見逃しなく!

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2012年3月14日 (水)

『神々の黄昏』@METライブビューイング

120305 遅れ馳せながら、先日のMETライブビューイング、ワーグナーの「神々の黄昏」の報告です。リングサイクルも進むにつれて、物語の舞台は神話世界から人間世界へと降りてきますが、この最終夜では表題に似合わず、もはや神々は登場せずに、権力の行方が複雑に絡み合う、人間たちの愛憎劇となっています。これまでの三作と同様、休息を含めた5時間半を豪華な舞台と壮麗な音楽に、たっぷりと浸ってきました。

R・ルパージュによる舞台は、4作を通じて、巨大な24枚の板をコンピュータ制御により縦横に駆使するものです。第1作「ラインの黄金」での水中を泳ぎまわるシーンや、第2作「ワルキューレ」の騎行などのスペクタクルな場面では度胆を抜かれましたが、今回のような人間劇では、主に映像投射によるスクリーン背景として使われていました。ラインの岩場シーンでは、水の流れ落ちるさまを美しく投影し、そこを乙女たちが繰り返し滑り降りていました。豪華セットならではの斬新な演出です。

ジークフリートを演じたジェイ・ハンター・モリス(T)は若々しいが、精神的には未熟な主人公役にぴったりでした。前作の「ジークフリート」の時以上にこの役に馴染んでいたようです。大物のワーグナー歌手には決して出せない初々しさに溢れたヘルデンテノールが魅力です。

デボラ・ヴォイト(S)の、ブリュンヒルデは、ワルキューレの一員であった頃からアメリカンテイストな人間味が十二分に出ていました。体型は決してキュートとは言えませんが、表情豊かな表現力は歌唱共々、お見事です。

ワルキューレの一人、ワルトラウテ役に何と、名ワーグナー歌手のヴァルトラウト・マイヤー(MS)が出演していました。つい先日、NHK BSによるバレンボイムとミラノスカラ座の「ワルキューレ」の放映で、彼女のジークリンデに魅了されたばかりでした。今回、出番は僅かとはいえ、ベテランの味わいを感じさせてくれました。流石にMET。新人からベテランまで見事な配役です。

新人といえば、グートルーネ役のウェンディ・ブリン・ハーマー(S)は、「ラインの黄金」でフレイアを演じていました。なかなかの美形で、この重厚な超大作に僅かながらも可憐な味わいを与えてくれていました。

そして、レヴァインの代役としてタクトを振ったファビオ・ルイージは、決して力任せになることなく、美しく、しかも雄弁な音楽を聴かせてくれました。おどろおどろしい展開に似合わない、とても心地良いワーグナーの音楽でした。

こうして、4回にわたったリングサイクルも終わりました。また夏のオフシーズン中にリバイバル上映があるのでしょうか?是非、もう一回通して見てみたいと思っています。

尚、三作品の過去ログは以下です。

ラインの黄金」、「ワルキューレ」、「ジーグフリート

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2011年12月18日 (日)

『サティアグラハ』@METライブビューイング

111212 米国の作曲家、フィリップ・グラスによる現代オペラ、「サティアグラハ」は何とも不思議な作品でした。「サティアグラハ」というのはサンスクリット語で「非暴力、不服従」を意味するとのことです。20世紀初頭の南アフリカを舞台に、インド移民たちへの差別に対する抵抗運動を繰り広げるガンジーの前半生を描いています。歌詞は「ヴァガヴァット・ギーター」というサンスクリット語で書かれたヒンドゥーの聖典から採られたとのことですが、舞台上の出来事とは一致していないそうです(字幕もなく、意味も分からないので、「だそうです」を鵜吞みにするしかありません)。これは歌詞を音として体感しなさいというのが作曲者の意図とのことでした。

ミニマル・ミュージックと言うそうですが、いつまでも単純に反復される断片的なリズム、メロディーと歌詞(音感)に最初は戸惑いましたが、次第に心地よさに包まれていくという不思議な感覚を味わいます。最初はまるでバッハみたいだとも感じたのですが、サンスクリットの音感と合わさると、むしろ経に近いことが分かります。心地よさと安心感の源はそこだったのですね。

一方、舞台演出、特に美術は斬新かつ刺激的でした。ガンジーは新聞発行を抵抗運動の柱に据えたということで、新聞紙を使った巨大な操り人形や、様々の演出が現れます。それらの形、色彩、動きに目を奪われます。特に第二幕は秀逸でした。

主役のガンジーを演じたリチャード・クロフトは、聖典の表現に相応しく、抑制を効かせながらも澄み切ったテノールを聞かせてくれました。助演者たちも、それぞれの役割をきちんと果たしています。舞台上では、計算された集団振り付けの中に個々の動きは埋没され、歌手たちに特に演技は求められません。ただ、Schlesenという同志を演じたラシェル・ダーキンというソプラノの存在感が際立っていました。全体に平坦な音楽劇の中で、意図的なアクセントの付加が計算されていたのでしょうか。尚、舞台は3幕に分かれ、それぞれの場面における共感の対象として、トルストイ、タゴール、キング牧師が常に舞台の背景に登場します。多少のこじつけ感があります。

米国生まれの現代オペラと言いながらも、古代サンスクリットの空気やバロック要素を感じさせる不思議な音楽体験でした。

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2011年12月 3日 (土)

『ジークフリート』@METライブビューイング

111203 ワーグナーのリング・サイクルも三作目を迎えました。タイトル・ロールが急遽、代役のジェイ・ハンター(T)に変わったということで話題になっていました。若手(といっても40才?)で経験も少なく、不安視されていたようですが、よく伸びる美声と溌溂とした思い切りの良い演技は、純粋無垢、単純で恐れを知らないジークフリード役にぴったりでとても好感が持てました。

この作品はどうも前半が苦手なのです。話がくどく(対話による過去の筋書き説明が多い)、音楽も様々な動機が断片的に繰り返されることで追いきれません。ミーメとさすらい人の対話のあたりではしばし意識朦朧となりました。それでも、ジークフリートのノートゥングを撃つ音に飛び起きます。迫力に満ちた反復とエネルギッシュな音楽は第一幕のハイライトですね。

第二幕の「森のささやき」の場面は、このおどろおどろしくも壮大な権力闘争と殺し合い、裏切り、愛憎劇の中で数少ない、牧歌的な味わいを与えてくれるシーンです。大蛇ファーフナーを倒した後に澄み切った声で小鳥のさえずりを歌ったモイツァ・エルドマン(S)がカーテンコールと幕間のインタビューに登場しました。つい先週、ツェルリーナを達者に演じていたばかりの美形の若手ソプラノです。これから人気者になっていくのでしょうか?

第三幕でブリュンヒルデが登場し、やっと期待通りの高揚感を得ることが出来ます。愛を歌う二重唱は指輪全体を通じても、ここと「神々の黄昏」の第一幕でしか聞くことは出来ず(ワルキューレでのジークムントとジークリンデは対話式)、フツーの(?)オペラに慣れた耳を安心させてくれます。

R・ルパージュの巨大な板を使った演出にもすっかり慣れて、違和感はないものの、あまり新鮮味を感じることはなくなりました。多くの場面で音楽が難解で、説明と理屈満載のこの音楽劇に長時間(正味約4時間)真正面から付き合うのはちょっと辛い気もしますが、聴きどころでは繰り返し感動を味わいたい作品ですね。

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2011年11月28日 (月)

『ドン・ジョヴァンニ』@METライブビューイング

111123 2011-2012シーズンのMETライブビューイングが始まっています。2作目の「ドン・ジョヴァンニ」を見てきました(@東劇、先週)。さすがMETということで、実に立派で重量級のオケ、舞台、そして配役陣です。時代設定に忠実なオーソドックスな演出で、この作品に真正面から向き合っています。

この作品の持つ数々の美しいアリアを味わうには余計な装飾や奇をてらう演出が邪魔になることは、すでに多くの読み替え演出や現代演出で実証済みです(例えば、2006年のザルツブルグ音楽祭)。今回のようなオーソドックスな演出は作品そのものを味わうのにはとても相応しいものと言えるでしょう。

しかし、一方で新鮮味に欠けることも事実です。現代の聴衆や視聴者にとっての「ドン・ジョヴァンニ」は、物語そのものや登場人物たちの生き方などを正面から受け止めるためのものではなく、あくまでもモーツァルトの音楽を聴くための台本であり、舞台であると思います。そこで欲しいのが、読み替えや別解釈などには至らない、モーツァルトの音楽を損なわない程度の小さな洒落や遊び心なのです。例えば、2008年の新国立劇場での、背景をベネチアに移した演出、思わず笑みがこぼれるコミカルなエルヴィラ次女の登場、2001年チューリッヒ歌劇場映像盤でのそこここに見られる洒落た味付けとスピーディな展開、などが音楽の洒脱さを一層引き立ててくれました。

出演者たちに不満は全くありません特にBフリットーリ(S)をはじめ女声陣は、自分の役割を熟知しながら各人に与えられたアリアを堂々とかつ美しく、丁寧に歌いこんでいました。ドナ・アンナ役のM・レベッカ(S)の声の美しさ、ツェルリーナ役のM・エルドマンの初々しさも印象的でした。

男声陣とオーケストラには迫力を感じます。とにかく、真正面から挑んでくるようなで立派過ぎるドン・ジョヴァンニに、満足よりも満腹感を感じてしまった私は若干疲れ気味?

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2011年10月12日 (水)

R・シュトラウス『サロメ』@新国立劇場

111009 久しぶりのオペラはR・シュトラウスの「サロメ」です(109@新国立劇場)。この作品については過去にも書いています(「サロメ・驚異の音楽劇」、「オスカー・ワイルドの戯曲サロメ」)。これまで、CDDVDなどではすっかりお馴染みの大好きな作品ですが実演を見るは初めてのことでした。

舞台はバイエルン州立歌劇場から移設された奇をてらうことのないオーソドックスな演出ということで安心して音楽劇に集中できました。しかし、細かいところでは、顔を青く塗りたくったブルーマンのような奴隷(?)や銃を抱えた兵士、小賢しい演技をする脇役などのように凝り過ぎて逆効果の場面も見られます。不気味な満月の下で展開する前半が濃紺、退廃を帯びた宴の中で展開する後半がピンクという舞台色は鮮やかで分かり易い対比でした。

タイトルロールのエリカ・ズンネガルド(S)はこの役で定評があるということでしたが、たびたび声がオケの中に埋もれていました。もともと、このサロメというのは至難の役柄です。R・シュトラウスは劇的効果のためにドラマティック・ソプラノをこの役にあてがい、演出上では七つのベールの踊りをこなし、しかも16歳の王女の高貴、自尊心、好奇心、執着心、そして狂気を演じねばならないのです。ズンデガルドは年令の壁はいかんともし難いとしても演技力や身のこなしは観客を十分に満足させるものでした。しかし、ドラマティック・ソプラノと呼ぶにはあきらかに声量が不足していました。一方で当夜の東フィルがあまりにも元気が良すぎたことによりそのことが一層目立ってしまったのかもしれません。

その他の主演者ではS・マックアリスター(T)は道化役としてのヘロデを見事に歌い、演じきっていました。ヨハナーン役のJ・ウェーグナー(Br)は少し不安定だったような気がします。ズンデガルドの出来、オケとのバランスなども含めて初日独特の瑕疵だったのかもしれません。

これで、新国のR・シュトラウスは「ばらの騎士」、「アラベラ」に続き3本目になりますが、前2作の絢爛と洗練、洒落の世界とは全く別の、若きシュトラウスのほとばしるような音楽の力に圧倒されます。これからも舞台や映像で何度も体験を重ねたい作品です。

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2011年6月19日 (日)

『ワルキューレ』@METライブビューイング

110617walcure ワーグナーの『ワルキューレ』はMETライブビューイングの2010-2011シーズンの幕切れを飾るのに実に相応しい作品です。幕間(ライブビューイングではインタビューや特典映像と休息)を含めると合計で5時間14分にもなる長時間上映ですが全く退屈することはありません。現代技術の粋を集めた舞台美術に目を奪われると共に、圧倒的な力で音楽が鳴り続ける至福の時間を味わうことが出来ました。

私は所謂ワグネリアンではありませんし、未だにワーグナー作品を「理解」出来ていません。どちらかというとモーツァルトやR・シュトラウスの「洒落」を好みますし、ベルカントに酔うことも出来ます。一方、ドイツ精神世界を舞台とする物語に共感を覚えることは難しく、「指輪」についても人間以上に俗っぽい神々に神性は感じられず、性格破綻者たちの織りなす破滅ドラマに憂鬱さは感じても悲劇性は感じられません。登場人物たちへの感情移入も適うことはありません。理解のためには一度、台本とじっくり向き合ってみる必要があるのかもしれませんが・・・。

しかし、観終わった後の満足感は他のオペラ作品群とは全く異なる大きさと深さをもったものとなります。何といっても壮大なスケールの音楽に圧倒されるのです。特に「ワルキューレ」は指輪シリーズの中でも際立って音楽性の豊かな作品です。前作「ラインの黄金」から引き継いだモチーフ群(ヴァルハラ城、魔の炎、剣など)に加え、多くの新たな動機(中でも「ワルキューレの騎行」は圧巻)が加わり、ジークムント、ジークリンデの兄妹が歌う「春と愛の歌」、父娘が別れるシーンでの「ヴォータンの告別」、「魔の炎の音楽」などは実に感動的です。

今回の舞台美術は前作「ラインの黄金」の技術をそのまま踏襲です。最初の驚きこそありませんが、巨大な板の集合体によるゴツゴツした岩山から美しい森までの表現はとても斬新で楽しめました。勇ましい「ワルキューレの騎行」をバックに8人の女戦士たちが滑り降りるシーンはさながら一大エンターテイメントショーです。そう、純粋に楽しめば良いのです。

出演者たちも素晴らしかったですね。役柄の好き嫌いは別として、B・ターフェル(ヴォータン)とS・プライズ(フリッカ)の存在感は圧倒的でしたし、イケメンのヨナス・カウフマン(ジークリンデ)は映像盤(バイロイト1980)でのペーター・ホフマンを彷彿させるようでした。なかでも、もはや肥満体から決別したD・ヴォイトの感情豊かでコケティッシュともいえるブリュンヒルデは妙な魅力に溢れていました。フレミングといい、ヴォイトといい、アメリカ出身の熟年ソプラノはますます元気ですね。

これで、ライブビューイングも半年間の休みです。途中で再上映の機会があれば、また見たいのは「ラインの黄金」とこの「ワルキューレ」です。ワグネリアンに近づいたとは思いませんが、「食わず嫌い」ではなくなりました。

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2011年5月19日 (木)

『カプリッチョ』@METライブビューイング

110518capriccio_2 前回に続いてまたもMETライブビューイングの記事になってしまいましたがご勘弁下さい。今回はR・シュトラウスの最後の一幕のオペラ作品『カプリッチョ』です。

しかし、これほどまでにメリハリのないオペラ作品というのも珍しいでしょう。それも一幕通しで141分間にわたって「感動させるのは言葉(詩)か音楽か?」という、ある意味どうでもよい会話劇が延々と続くのです。もっとも、そこはR・シュトラウス、途中で嫌気のさした登場人物(舞台演出家役)にたしなめさせたり、バレエや道化風のソプラノ・テノール二重唱を効果的に挟みこんだりして、全体を緊張感の欠如による破綻から救っています。

最初のインタビューで主役のルネ・フレミングが「R・シュトラウスが非ドイツ的、かつ全く社会性のないこの作品を創ったのはナチに対する抵抗だった」と述べていました。ちなみに、この作品が初演されたのはミュンヘンの劇場で1942年、作曲家たちが国家への貢献を求められていた時代でした。シュトラウスはこのノー天気な作品を発表することで彼なりの主張を行ったのでしょうか?

作品は地味でもそこはやはりR・シュトラウス作品です。最大の聴きどころは最後の女主人公マドレーヌによる独白シーンでしょう。官能的な管弦楽の響きと競い合うルネ・フレミングの特徴ある少しポップな歌唱はまさに彼女の真骨頂ともいえる場面です。手元には2004年、パリ・オペラ座の映像(R・カーセン演出)があります。年を重ねた7年後の舞台の方が溌剌と見えるから不思議です。前にインタビューで「今後はシュトラウスをレパートリーの中心にしたい」と言っていたフレミングはこれからもマルシャリン、アラベラ、マドレーヌの第一人者として舞台に立ち続けるのでしょうか?

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