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2014年4月14日 (月)

東北周遊 その3~三陸海岸、久慈から宮古、仙台へ

下北半島を陸奥湾に沿って南下し、東北町、小川原湖畔、三沢、八戸道路、軽米を通過して久慈に至ります。折しも三陸鉄道北リアス線の全面開通が三陸海岸沿いの復興事業に弾みをつけているようでした。

翌日は天気にも恵まれ、海岸沿いを宮古まで南下します。途中、「あまちゃん」の舞台にもなったという小袖漁港にも寄りましたが、観光客相手の海女センターはスルー。番組を見ていない自分にとって特に感慨はなし。

北山崎、鵜の巣断崖などを寄り道見学しながら、震災で大被害を受けた宮古の田老地区に入ります。71 丁度2年前に、震災1年後の女川と石巻を訪れました。平地の建物は根こそぎ破壊され、湾に面した一画は廃墟と化し、あちこちに巨大なガレキの山が積み上がられていました。その時に受けた大きな衝撃は今も目に焼き付いています。それに比べると、田老地区の家々は壊滅したままですが、ガレキは片づけられ、土木工事が活発に進められています。しかしながら、聞こえてくるのは建機の音ばかりで、住民の方々の息遣いを感じることは全く出来ません。この町に人々の姿が戻ってくるのはいつになるのでしょうか?

73 町から車で30分ほど離れたグリーンピア敷地内に仮設住宅と復興商店街が建てられています。仮設住宅はひっそりと静まりかえったままです。すでに3年もの間、この仮設に暮らしている方々のことを想うと胸が痛みます。辛うじて、復興商店の皆さんの明るい笑顔が救いになります。

宮古から内陸に入り、盛岡でO君が降り、東北道を再び仙台へ。この数日間、まわってきた各地の姿とは全く異なる、繁栄した大都会の顔がここにはあります。数年に一度は訪れているので、学生時代を過ごした40数年前からの変貌ぶりにはすでに驚くことはなく、むしろ、街のあちこちに昔の面影を見つける度に嬉しくなります。今回は往路に、学生時代の仲間たちとの卒業以来の再会も果たしました。この街への思い入れはいつまでも変わりません。

こうして約1週間の東北旅行を終えました。再び、半仕事と脱原発と猫とアントラーズの日常に戻ります。

<写真>

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東北周遊 その2~下北原発街道

52_2 六ケ所村から下北半島の太平洋岸を北上するとまもなく東通村に至ります。ここにあるのが東北電力東通原発です(BWR/110KW)。幸い、過酷事故には至らなかったものの、東日本大震災時の被災原発のひとつです。被害の実態は定かでありません。現在は耐震補強工事中(といっても、今さら、原子炉本体が強化される訳ではありません)で、新規制基準への適合申請(再稼働申請)は未だなされていません。南に数キロ離れた漁村から眺める原発施設は広大な太平洋を前に如何にも無力・無防備であるように感じました(右の写真)。

むつ市から半島突端の大間に至る道路はかなり険しく、断崖が海岸線に迫っています。数キロごと、その僅かなすき間に小さな漁村がへばりついています。日本海側でしばしば見る風景ですが、真冬を想像すると自然・生活条件は遥かにに厳しそうです。すでに4月だというのに、半島の中心部の恐山方面への道路は雪のため通行止めです。いつまでも止まない強風もこの土地ならのことなのでしょうか。ようやく土地の開けた大間にたどり着くとほっとします。対岸の函館は見ることが出来ませんでした。強風にあおられる海面の飛沫のせいでしょうか。近くの大間海峡保養センターでお湯に浸かります。舐めると塩辛いナトリウム温泉でした。

大間原発は町の南の外れにあり、下の写真の通り、工事中です。進捗率は約60%とのことです。折しも43日、対岸30キロの函館市は国と事業者(電源開発)を相手取り、同原発の建設差し止め訴訟を東京地裁に起こしました。自治体による原発差し止め訴訟という画期的な出来事です。また、この大間原発の特徴は他の軽水炉と異なり、フルMOX燃料炉ということです。高速増殖炉「もんじゅ」の失敗を受けて、再処理で得られるプルトニウムを無理やり消費するための100%プルサーマルなのです。核燃サイクルの破綻の象徴がここにも現れています。大間原発を稼働させないこと(すなわち、プルトニウムの消費先を絶つこと)が六ケ所の再処理施設を動かさせないことにもなります。他の原発でのMOX燃料の消費だけでは、プルトニウムは溜まる一方となり、すでに米国等から、核セキュリティ上の強い懸念が表明されています。

六ケ所と下北をめぐるこの旅行で、核施設にたよる下北半島の現実と、核燃サイクル政策の矛盾を改めて感じ取ることが出来ました。

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東北周遊 その1~青森と六ケ所村

車で約1週間の東北周遊の旅に出かけました。主な目的は、(1)青森で開催される反核燃イベントへの参加、(2)下北半島と三陸海岸の旅、そして(3)仙台で学生時代の仲間との再会、です。同行者は学生・会社時代を通じての友人、O君です。

まずは青森です。途中、仙台、平泉、O君の地元である北上などに寄り道をしながら浅虫温泉へ。夕暮れの陸奥湾を眺めながら湯に浸かり、長距離運転の疲れを癒します。海沿いの温泉らしく臭いや癖のないお湯です。

青森市内では毎年、この時期に開催される反核燃料サイクルのイベント(学習会、屋外集会、市内デモ、交流集会)に参加してきました。先日来、六ケ所村の再処理施設等の運転差し止め訴訟原告団への技術面サポートを行っていることから、一度は現地の様子に直接触れてみたかったのです。

16_2  東京ではすでに桜が満開のこの季節、青森の屋外集会とデモでは時折横殴りの雪に見舞われました。この旅行中は寒波と強風に、青森や下北で真冬の厳しさが想像されることも度々でした。その寒空の下での行進の先頭は、都内の脱原発集会・デモでもすっかりお馴染みの「制服向上委員会」のメンバーたちです(写真)。今回、知ったのですが、この制服向上委員会は1992年発足の老舗アイドルユニットなのですね。4人組のチームに分かれて各地の脱原発や護憲の市民イベントに登場する稀有な存在です。

翌日は六ケ所村再処理工場正門前での集会イベントでした。写真のように屈強なガードマンが私たちを見守っています。後ろの建物内では、完成後は、2 x 1020ベクレルもの放射性物質を常時取り扱うことになります。もし事故が起こった場合の被害はフクシマの比ではありませんし、保有プルトニウムだけが増えていくという核エキュリティ上の問題も深刻です。そもそも核燃料サイクル政策そのものが破たんしているのに、竣工だけが自己目的化しています。経産省、電力業界も本音では「やりたくない」核燃サイクルはただちに中止すべきです。31

 日本原燃のPRセンターを覗いてから周囲をめぐります。この地域は、かつて1960年代末に「むつ小川原開発計画」として石化コンビナートや製鉄所を主体とする大規模臨界工業地帯として計画されましたが、2度のオイルショックを経て見事に頓挫しました。核燃サイクル設備計画が持ち上がったのはその後の1980年代です。今でも、周囲は原野に覆われており、突如、石油備蓄タンク群と核燃サイクル設備の建物が視界に出現する違和感。「かくして、放射性廃棄物処理施設(核のゴミ捨て場)だけが残った」この地域に未来はあるのでしょうか?深刻な地域汚染に晒される本格操業前の今だけが、引き返すことの出来る唯一のチャンスだと思います。

六ケ所村を後にして、次は下北半島を北に向かいます。

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