コルンゴルド『死の都』 @新国立劇場
この作品については、以前に映像盤を紹介しています。それ以来、いつかはと心待ちにしていた実演での鑑賞がやっと果たされました(3月24日の最終公演日)。期待通り、音楽と舞台の美しさにたっぷりと浸ることができ、深い感動を味わうことができました。まさに至福のひと時でした。
この作品が甘美な旋律と豊かな音量に溢れていることはすでに周知の通りですが、一方で、20世紀オペラ作品としては、後期ロマン派音楽の残り香があまりにも強いゆえに一部のクラシックファンからは低い評価も受けていたようです。実際に、作曲者コルンゴルド自身の米国亡命後は、長い期間にわたって忘れ去られていました。しかしながら、最近のヨーロッパや日本における上演頻度の多さや複数映像盤の入手が可能になったことなどで、コルンゴルド本人の業績とともに改めてこの作品の素晴らしさが見直され、すっかり復権を果たしたようです。
私がこの作品に入れ込むきっかけとなったのは、ストラスブール劇場による舞台映像盤によってです。以来、CD全曲盤(E・ラインスドルフ指揮、ミュンヘン・フィル)を何度も聴き込み、他の映像盤(下述)を視聴し、さらには下敷きとなったローテンバックの「死都ブリュージュ」(岩波文庫)も取り寄せました。小説も実に面白く、オペラ台本用にコルンゴルド親子が書いた、いわゆる「夢オチ」の結末ではなく、亡き妻にそっくりの奔放な踊り子に身を滅ぼす主人公の一直線の破滅物語です。この小説の書かれた世紀末の匂いが濃厚で、趣のある多くの挿絵(写真)により、物語のもう一つの主人公ともいえるブリュージュの街のイメージが深まります。
舞台の感想に戻ります。カスパー・ホルテンによる演出は、亡き妻マリーを実際に登場させることによって心理的な効果を高めています。亡き妻マリーを視認できるのはパウロと観客(そして最終幕でのマリエッタ)だけです。そのことによって観客は、踊り子マリエッタと亡妻マリー、すなわち、生きる者と死者、現実と幻影、奔放と貞淑、肉体と精神の間で揺れ動く主人公パウロの内側から物語の進行を眺めることが出来るのです。
パウル役のT・ケール(T)はストラスブール盤での印象が強く、今回の演出でも、マリーとマリエッタとの間で、ますます精神を病んでいく主人公の脆さと弱さが強調されます。
M・ミラー(S)は、いかにもアメリカンテイストなソプラノで、勝気と奔放さが勝るマリエッタ役にピッタリです(マリーとの体型の違いは無視(^^;))。第三幕でマリエッタが、どん底の社会から這い上がってきて今を生きていることを朗々と歌い上げる場面は、私の大好きなハイライト場面のひとつです。
賑やかな劇団仲間たちも、歌唱のみならず、その衣装も含めて楽しませてくれます。「ピエロの歌」で女声のヴォーカリーズが入る箇所は、度々現れる「リュートの歌」のメロディと共に、その甘美な旋律に心を奪われます。
続けて何度でも見たい!聴きたい!と思わせるオペラ作品は数多くありますが、私の中で、この「死の都」はそれらの中でも、R・シュトラウスの諸作品と共に筆頭にくる作品のひとつなのです。
さて、現在、市販されているDVDは以下の3本です。オーケストラの鳴り具合、出演者の歌唱・演技共に申し分なく、いずれもこの作品の素晴らしさと面白さを教えてくれます。
ストラスブール・ライン国立歌劇場(2002年)、T・ケール、A・デノケ
パウルを演じるのは、今回の新国立劇場と同じ、T・ケールです。とても伸びのあるヘルデンテノールです。主人公の精神的に行き詰った狂気ぶりが強調されていますが、舞台演出の斬新さと相俟って、強烈な印象を与えてくれます。
ドイツベルリンオペラ(1983年)、J・キング、K・アームストロング
オーソドックスな演出なので、物語を容易に理解することが出来ます。原作(ローデンバック)の雰囲気も良く残しています。マリエッタ役のK・アームストロングの優れた容姿と演技により、物語そのものへの感情移入も容易です。
フィンランド・国立オペラ(2010年)、K・F・フォークト、K・ニールンド
今回の新国立と同一の演出です。上述したように、亡くなったマリーを常に舞台上に登場させることで物語性を強めています。パウル役のK・F・フォークトは人気急上昇中の新進テノールです。狂気にまで至ることはなく、夢から覚めた後は、むしろ爽やかともいえる印象を残します。
ということで、演出によって三者三様のラストを迎えます。今回の新国立もカメラが回っていました。BS放送で放映される日も近いでしょう。お見逃しなく!
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