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2009年6月28日 (日)

「野火」、「桜島」、「日の果て」

90626 前回紹介した『俘虜記』に続いて、同じ大岡昇平の『野火』、梅崎春夫の『桜島』、『日の果て』を続けて読みました。いずれも、終戦前後の軍隊組織の愚劣さと崩壊を描いた中・短編です。特に『野火』と『日の果て』ではフィリッピン戦線の敗残兵たちが辿る壮絶な断末魔の世界が描かれます。団塊の世代に属する私に戦争体験はありませんが、沖縄戦、広島、長崎、そして終戦という64年前の夏の日々に近づくたびに、一つ前の世代が被った悲惨を忘れてはならないと普段は怠惰な心の一部が命じます。

『野火』は肺からの喀血(結核?)ゆえに部隊から見捨てられた「私」」こと田村一等兵が数ヶ月間にわたってジャングルを彷徨う姿を描きます。同様の傷病兵、敗残兵たちが次々と悲惨な末路を辿るなかで、「私」は図らずも得た精神の自由を喜びながらも、一方で確実な死に向かう自分の姿を冷静に、かつ半ば自虐的に見つめます。しかし、繰り返し襲ってくる孤独と飢餓への恐怖はあまりにも凄まじいものでした。やがて、人間としての尊厳を守り抜くことが次第に困難になります。「私」はこうして逃避行の中で次第に人間性を失いながらも肉体は彷徨い続けます。

『日の果て』で、主人公の宇治中尉は上官の命令により、崩壊した軍隊から先に離脱した同僚の士官(花田中尉)をジャングルに追跡します。宇治は同行の高城伍長に米軍への投降の意思を伝えつつも、現地の女性と共に潜む花田中尉の存在にこだわり続けます。『野火』と同様、一種のロードムービーならぬロード小説(?)ですが、大岡作品がとことん自虐的であるのに対し、梅崎作品はある意味、虚無と滅びの美学を感じさせる耽美的な作品です。

『桜島』はかなり趣きが異なります。暗号兵、村上兵曹は米軍上陸に備えて鹿児島の桜島の通信基地に赴任します。すでに沖縄は落ち、死を覚悟した下士官や兵士たちの諦念や一方での生への執着、が描かれます。こんな状況の中でも軍隊組織はあくまでも暴力的です。やがて、基地は815日を迎えます。

大岡昇平と梅崎春夫はそれぞれ一兵卒として召集を受け、知識人特有の冷静な目で軍隊の崩壊と兵士たち、そして自分の生き様と死に様を見つめます。戦後戦争文学の世界を切り開いた作家たちであると共に、その作品群は戦争体験世代が次第に消えていく現代にあって、ますます存在意義が高まっているように思えます。

皆さんも、64回目に夏にあたって、これらの短編集を手にとってみてはいかがでしょうか?

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