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2009年5月21日 (木)

「生瀬一揆」の跡地を歩く

90521_3 今から約400年前、戦国末期あるいは徳川時代の初め、1602年から1621年の間のどこかで起こった「生瀬一揆」については為政者によって意図的に記録が残されず多くが不明であり、未だに歴史の闇の中に深く埋もれています。しかし、当時の常陸国(現在の茨城県大子町)小生瀬村が「全村皆伐」に遭い、350名から500名の村人が子供も含めて老若男女を問わず皆殺しにされたことは歴史的事実とのことです。「生瀬一揆」あるいは「生瀬の乱」と呼ばれるこの悲劇はなぜ起こったのでしょうか?

今、現場となった小生瀬村に見られるのは写真のようなのどかな農村風景であり、かつての悲劇の痕は全く留めていません。しかし、農民350名が逃げ込み、惨劇の場となった「地蔵の森」は今では「地獄沢」という名前で呼ばれ、公道に面した入口には下の写真のような説明札が立てられています(クリックすると拡大)。

この説明札によれば年貢徴収を巡る偶発的な暴動が惨劇のきっかけとのことです。他に、検地を巡る争い、村の自治を守るための戦いといった説があるようです。いずれにせよ、反徳川であった常陸佐竹氏の秋田への移封に伴い、水戸徳川氏(当時は武田氏)が新たな為政者として乗り込んだことによって、それまで、対北(伊達氏)対策としてある程度認められていた村の自治や年貢への考慮が、このような深い山奥の山村にも拘わらず、徳川政権による全国統一管理の徹底により一切認められず、厳しい封建体制の只中に組み入れられてしまったことが背景としてあるようです。

私がこの地を直接見てみたいと思ったのは飯嶋和一著「神無き月十番目の夜」(小学館文庫)を読んでからです。この物語では、上述した理由によって武装と半独立を保っていたこの地域と新しい為政者との間で軋轢が次第に高まり、ついに小生瀬村の若衆たちの勝算ありとの誤った判断が暴発を引き起こしてしまうのです。武士であり、村の肝煎でもある主人公の石橋藤九郎は衝突回避に必死となるのですが・・・。勿論、小説である限り、読者としてフィクションと事実の混同は避けねばなりませんが、為政者による犯罪ゆえに記録から抹殺され、どうにか伝承によってのみ伝えられてきた悲劇がこの小説によって陽の目を見ることになったことは、歴史的興味もさることながら、今も世界のあちこちで行われている戦争犯罪を考える上でも決して無関係ではないような気がします。

 

今回の訪問では、福島との県境に近く、四方を山に囲まれた奥深い地域であること、一つ一つの面積は小さいながらも苗の緑が瑞々しい田園の風景、深い森が行く手を塞ぎ奥には進めない地獄沢への入り口などが印象的でした。

尚、ネット上でも生瀬一揆に関わる記事は極めて少ないのですが、「生瀬一揆400年」と題した丁寧なサイトがありますので興味を持たれた方は必見です。

 

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