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2009年5月31日 (日)

『ラ・チェネレントラ』@METライブビューイング

90531chenerentra1 今シーズンのMETライブビューイング、最後の上映作品はロッシーニの『ラ・チェネレントラ』です。物語はいわゆる「シンデレラ」で実に他愛のないものですが、クレッシェンドを思いっきり利かせたロッシーニの活き活きとした音楽が魅力の作品です。

舞台装置は豪華さを売り物にするMETとしてはかなり安手な印象です。ごくオーソドックスな演出と相俟って安心は出来ますが新鮮味には欠ける舞台でした。指揮はマウリツォ・ベニーニ、名前からするとイタリア人でしょうか?しかし、ロッシーニ音楽の生命線ともいうべき洒落気と軽妙さがあまり感じられませんでした。例によって劇場の音響のせいでしょうか?音が鳴り過ぎです。

結局はエリーナ・ガランチャの美貌と歌唱力、才気といった魅力に全面的に依存した舞台となりました。人気絶頂の彼女がオペラ大衆化の宣伝に果たしている役割はとても大きなものがあると思います。今回のライブビューイングがガランチャ目当てであったのは私だけではないでしょう。

(ちなみにガランチャに関する過去記事は「ウェルテル」と「コジ・ファン・トゥッテ」の映像について)

他の主演者でいえば、アレッサンドロ・コルベッリ(ドン・マニフィコ)、シモーネ・アルベルギーニ(ダンディーニ)の二人の名ブッファ・バリトンはしっかりと脇を固めていましたし、二人のやはりブッファ・ソプラノ&メゾ姉妹も楽しめました。王子役に黒人テノール(ローレンス・ブラウンリー)を充てたのには流石にアメリカという感を強くしました。ただ、ガランチャとの身長差も含めて外観に違和感があったのも事実です。

手元には『チェネレントラ』の映像が2種類あります。

ひとつはヒューストン歌劇場(1995)でC・バルトリの魅力が全開です。コルベッリがここではダンディーニを演じています。演出、演奏、歌唱共に素晴らしい舞台です。

もう一つはグラインドボーン音楽祭(2005)で、L・ドノーセ(MS)、M・ミロノフ(T)のフレッシュなコンピが爽やかです。アルベルギーニがここでもダンディーニを演じています。

来シーズン(200910-20105月)のライブビューイングのラインアップが発表になっています。ここに挙げておきましょう。カッコ内は主な出演者です。

トスカ(マッティラ、アルバレス)、アイーダ、トゥーランドット(グレギーナ)、ホフマン物語(ネトレプコ、ガランチャ)、ばらの騎士(フレミング、グラハム、シェーファー)、カルメン(ゲオルギュー、フリットーリ)、シモン・ポッカネグラ(ドミンゴ)、ハムレット(デセイ)、アルミーダ(フレミング)の9作品。

オジ・ファン・トゥッテ管理人として外せないのはやはり「ばらの騎士」「ホフマン物語」「ハムレット」でしょうか?でも、やっぱり生の舞台が観たい!

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2009年5月21日 (木)

「生瀬一揆」の跡地を歩く

90521_3 今から約400年前、戦国末期あるいは徳川時代の初め、1602年から1621年の間のどこかで起こった「生瀬一揆」については為政者によって意図的に記録が残されず多くが不明であり、未だに歴史の闇の中に深く埋もれています。しかし、当時の常陸国(現在の茨城県大子町)小生瀬村が「全村皆伐」に遭い、350名から500名の村人が子供も含めて老若男女を問わず皆殺しにされたことは歴史的事実とのことです。「生瀬一揆」あるいは「生瀬の乱」と呼ばれるこの悲劇はなぜ起こったのでしょうか?

今、現場となった小生瀬村に見られるのは写真のようなのどかな農村風景であり、かつての悲劇の痕は全く留めていません。しかし、農民350名が逃げ込み、惨劇の場となった「地蔵の森」は今では「地獄沢」という名前で呼ばれ、公道に面した入口には下の写真のような説明札が立てられています(クリックすると拡大)。

この説明札によれば年貢徴収を巡る偶発的な暴動が惨劇のきっかけとのことです。他に、検地を巡る争い、村の自治を守るための戦いといった説があるようです。いずれにせよ、反徳川であった常陸佐竹氏の秋田への移封に伴い、水戸徳川氏(当時は武田氏)が新たな為政者として乗り込んだことによって、それまで、対北(伊達氏)対策としてある程度認められていた村の自治や年貢への考慮が、このような深い山奥の山村にも拘わらず、徳川政権による全国統一管理の徹底により一切認められず、厳しい封建体制の只中に組み入れられてしまったことが背景としてあるようです。

私がこの地を直接見てみたいと思ったのは飯嶋和一著「神無き月十番目の夜」(小学館文庫)を読んでからです。この物語では、上述した理由によって武装と半独立を保っていたこの地域と新しい為政者との間で軋轢が次第に高まり、ついに小生瀬村の若衆たちの勝算ありとの誤った判断が暴発を引き起こしてしまうのです。武士であり、村の肝煎でもある主人公の石橋藤九郎は衝突回避に必死となるのですが・・・。勿論、小説である限り、読者としてフィクションと事実の混同は避けねばなりませんが、為政者による犯罪ゆえに記録から抹殺され、どうにか伝承によってのみ伝えられてきた悲劇がこの小説によって陽の目を見ることになったことは、歴史的興味もさることながら、今も世界のあちこちで行われている戦争犯罪を考える上でも決して無関係ではないような気がします。

 

今回の訪問では、福島との県境に近く、四方を山に囲まれた奥深い地域であること、一つ一つの面積は小さいながらも苗の緑が瑞々しい田園の風景、深い森が行く手を塞ぎ奥には進めない地獄沢への入り口などが印象的でした。

尚、ネット上でも生瀬一揆に関わる記事は極めて少ないのですが、「生瀬一揆400年」と題した丁寧なサイトがありますので興味を持たれた方は必見です。

 

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2009年5月19日 (火)

睡蓮@萱田公園

自宅周辺、散歩コース途中の池に睡蓮の花が咲いていました。切れ目の入った葉の形から「蓮」ではなく「睡蓮」であることが分かります。僕には「睡蓮=モネ」という単純な発想しか思い浮かびませんがヒツジ草とも言われる語源、原産地、蓮との違い等々をネットで調べてみるといろいろ勉強になります。水の上の可憐な姿がいよいよ初夏の始まりを予感させますね。

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2009年5月12日 (火)

『トレチャコフ美術館展』 @Bunkamura

90512 「忘れえぬロシア」と題した国立トレチャコフ美術館展が渋谷のBunkamuraミュージアムで開催されています(67日まで)。全75点のロシア近代絵画群です。写実的な自然や日常風景を中心とした作品が多く、とても気分が和むと共に懐かしさを味わいました。

1980年代には仕事で頻繁にモスクワを訪れていました。旧ソ連邦にほとんど娯楽が無い時代で、昼間は美術館、晩は劇場でバレーやコンサートを観るというのが出張者たちにとっては最大の贅沢でした。モスクワにはヨーロッパ絵画を集めたプーシキン美術館と、ロシア絵画を集めたトレチャコフ美術館という双壁を成す二つの国立美術館があり、かわるがわる訪れたものです(ちなみにサンクトペテルブルではエルミタージュとロシア美術館が同様に双壁ですね)。

展示は主にクラムスコイやレーピンといった所謂「移動展派」と呼ばれる画家たちの作品が中心です。19世紀の後半にロシア美術アカデミーの権威に抵抗し、自然や民衆の日常をどこまでも写実的に描き、かつ移動展でもって人々の中に溶け込もうとした画家たちです。いわば芸術の世界での「ナロードニキ」ですね。革命後の社会主義リアリズム(というよりはスターリン主義)による干渉も未だ無い時代の自由と闊達さが作品に溢れています。特に市民の日常を描いた作品群には好感が持てます。ニコライ・クズネツォフの「食事のあと」(上の絵)などはその典型でしょう。

モスクワのトレチャコフ本館ではもっと暗い印象の絵が多かったように思います。社会主義リアリズムに影響された帝政時代の「抑圧」と過酷な「労働」を描いたものが多かったからでしょうか?またイリヤ・レーピンというと「ヴォルガの舟曳き(ロシア美術館)」のような労働を写実的に描いた作品が代表的と思われますが、今回の展示では「あぜ道にて」(下の絵)のようなまるでモネの「日傘をさす女」のような明るく透明な絵が出品されています。

一部を除いて印象派の作品群のような鮮やかさと革新性を感じることはありませんでした。しかし、ロシアの大地や自然や人々への愛着と誇りに溢れていることへの羨ましさと共感を大きく覚えます。見た後にこれほどの爽やかな気分を残してくれる展示会も珍しいのではないでしょうか?

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2009年5月 3日 (日)

憲法記念日二題

今日は194753日に日本国憲法が施行されてから62年目となります。団塊の世代に属する私たちは国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という憲法精神が最も発揮された時代に初等教育を受け、特に意識はしてこなかったものの、それらを当然のものとして身体の中に染み込ませてきた世代と言えます。日本国憲法は私たち国民の人権や平和、生活を守る上での国家の運営原則であると共に、個々人が様々なことを考える上での基準あるいは道標(みちしるべ)となってくれるものです。それほどに、現行憲法に記された理念は素晴らしいものだと言えます。

改憲を主張する人々は、60年を経て時代環境が変わった、あるいは現実との齟齬ということを理由としますが、むしろ混迷を深める今の時代にあって、日本国憲法という原点の「実現」こそが向かうべき方向だと思います。

さて、以下はその憲法記念日にあたっての二題です。

(その1)

90503今日の朝日新聞全国版(と、北海道新聞)に右のような意見広告が掲載されていたのをご存知ですか?7,521名(匿名を含めると8,395名)の署名付きの『憲法第9条(戦争の放棄)・第25条(基本的生存権)の実現を!』という市民カンパによる広告です(虫眼鏡が必要ですが私の名前も記載されています)。お互いに顔も知らないひとりひとりの力はあまりにも小さく、この8,395名による意見広告も宣伝効果としては一瞬のことですが、「出来ることはしてみよう」という立場で参加してみました。

(その2)

九条の会・ちばけん」と「九条の会・千葉地方議員ネット」の共催による「憲法9条の集いin Chiba」という催し物がありました(52日、習志野文化センター)。イラク支援ボランティアの高遠菜穂子さんと憲法学者で九条の会の呼びかけ人の一人、奥平康弘さんによる講演はとても興味深いものでした。1,500人収容の会場は満席で100名以上が入場出来なかったとのことです。

高遠さんは2004年、イラク抵抗勢力からの解放後に国内で激しい自己責任バッシングを受けて深い痛手を負ったものの、再びイラク人道支援の最前線に立って活動を継続しています(詳細は高遠さんのblogへ)。今回は映像と写真を交え、5年ぶりに訪れたイラクの現状報告でした。いまだに暴力の応酬が絶えないバクダッド市内とは異なり、西部のアンバール州等では地元勢力主導による復興と平和への兆しが現われてきたとのことです。しかし、一方では国内外に約500万人(実に5人に一人)という難民の存在、米軍、原理主義、抵抗勢力という三つ巴の戦闘構造、シーア、スンニ両派対立、クルド民族問題等は未解決のままです。戦争の引き起こした悲惨はいつ解決されるのでしょうか?

奥平さんは「九条の会」結成時の秘話に始まり、かつてのような「自衛隊の存在=違憲」という単純で拡がりを伴わない見方からの脱却、9条と25条は一体であることなどを時にはユーモアを交えて分かり易く話してくれました。

北朝鮮によるミサイル発射以降、ソマリアへの海上自衛隊派遣、自民党主導による衆院憲法調査会再開の動き、と世の中が急にキナ臭くなってきました。この機会にこそ、原点に戻り、日本国憲法の一読はいかがでしょうか?

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2009年5月 1日 (金)

大竹収・『木工ひとつばなし』

90501 信州安曇野に工房を持つ木工家、大竹収氏によるエッセイ集が出版されました(プレアデス出版)。著者のHPに書き貯められてきた文章が出版社の眼にとまり、必要に応じた書き直しと再編集を経て出版に至ったものです。全体を通して著者の「木」への愛情と手造り製作へのこだわり、そして温か味あるインテリジェンスに満ちています。

「木」への愛情については、そもそも「樹」として持っていた生命へ敬意と共に、木目、節といった各々の樹や木材の持つ個性について語られ、都会人にとって忘れがちな樹という身近な存在への念を思い出させてくれます。更に樹木(植物)こそが二酸化炭素の固定化(有機物化)を通じて太陽光線のエネルギーを地球上に取り込むことの出来る唯一の存在であり、例えば化石燃料の消費というのは何億年もの時間をかけて貯めてきた貯金を一挙に使い果たしてしまうようなものだと警告しています。また生態系のしくみの中で森林や樹木が果たす役割について自然への畏敬の念と共に語られています。

木工家具製作については木材の選び方から始まり、加工上の様々の工夫や技術、苦労、満足等について語られます。とても平易な語り口ですので専門家ではなくとも大いに共感をもって読むことが出来ます。著者が設計(デザイン)ということについて一家言を持つのは木工家としては当然のこととしても、加えてプラント設計者としての経歴によるところも大きいのでしょう。

私にとって、著者はかつて海外プラントエンジニアリング会社での同僚でした。彼は回転機設計部に属し、最新の機械工学エンジニアとして世界中を飛び回っていたのです。工学的機能に設計美を見出してしまう性(サガ)のようなものがその根底にあるようです。

この本の随所に現れるインテリジェンスについても、その経歴と無関係ではないでしょう。早期退職によって職人の世界に飛び込んだとはいえ、自然科学知識のみならず、海外とそこに住む人々を知っていることは旧来的な木工職人の伝統世界とは一味異なる新世代職人を生みだしているように思えます。

『木工ひとつばなし』は金属やプラスティック製品に囲まれた生活の中ですっかり忘れかけていた樹木や木材の魅力を思い出させてくれました。今回、改めて身の回りの木製家具類を見渡してみて、それが例え量産品であっても木目の温もりや木の手触りの感触に懐かしさを感じとることが出来ました。木工に興味を持つ人だけではなく、自然や人間に温もりを求める人、土曜のTV番組「人生の楽園」に共感する人(^^;)にはお薦めです。

(下の写真はHPより)

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