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2009年1月29日 (木)

縮小を続けるアラル海

91028 かつて世界第4位の湖沼面積を有したアラル海が縮小を続け、今や瀕死の状態にあります。地球最大規模の環境破壊のひとつとして世界中からも多くの懸念が寄せられています。先日、NPO法人「日本ウズベキスタン協会」にてこの問題に長らく関わってこられた東京農工大の川端良子準教授のお話を聞く機会がありましたので報告します。

衛星写真は2004年に撮影されたものです。黒い線は1950年時点での海岸線です。1960年代から縮小を続け、今では面積、貯水量ともに当初の四分の一以下に減少しています。海外線は180キロメートル以上後退しました(一日平均約10メートル以上!)。かつては湖底であった砂漠には多くの漁船や貝殻が取り残されています(下の写真)。

原因は1950年代から始まった上流地域での大規模灌漑です。ソ連邦時代に綿花の一大生産地として位置付けられたウズベキスタンは独立後の今も綿花は最大の外貨収入源として国策上の最重要生産物のひとつなっています。加えて、周辺国を含めた人口の増加と社会の発展に伴う、工業用水、都市生活水、緑化灌漑水をアラル海に注ぐ2大河川(パミール山系を源流とするアムダリヤ、天山山系を源流とするシルダリヤ)からの取水に頼ったため、ついにはアラル海への流入量が蒸発量を大きく下回ったのです。砂漠地帯を横切る灌漑や開発のための運河が無造作な素掘りであったことも大量の水が砂漠に無駄に吸収されていくことの一因となりました。

結果として、アラル海の大部分は干上がり、塩分や重金属濃度が上昇し、漁業は壊滅し、地域住民の雇用と健康問題を引き起こし、周辺土壌は塩害に侵され不毛の地と化しました。

アラル海はシルダリヤが流入する北の小アラル海(カザフ領域)とアムダリヤが流入する大アラル海(カザフとウズベク)に分裂し、大アラル海は更に東西に分裂し、水深のない東側はほとんど消滅しかかっているのが衛星写真からもよく覗えます。

カザフ側は小アラル海だけでも救おうとシルダリヤ側の流量回復に努め、更に大アラル海への流出を防ぐために大規模堤防を完成させました(2005年)。それが功を奏し、現在では回復傾向にあるとのことです。

一方、大アラル海(特に東側)に関しては消滅は止むなしというのがウズベク政府の基本姿勢のようです。綿花栽培をはじめとするアムダリヤ流域での農業や都市部への水供給を犠牲に出来ないこと、干上がった湖底からのガス開発が開始され、新たな国家収入が見込まれることなど国家としての生存を優先せざるをえないことが理由です。また例え、莫大な投資により流入量を増加させたとしても、いったん破壊された生態バランスは復帰しないだろうという科学的見解もあります(例えば、カルシウム類を取り込んでいた貝類の絶滅による生物濃縮機能の不全)。

どうやら心情的な願いには反するも、かつてのアラル海の回復は「不可能」であるという前提の上で、環境と開発のトレードオフという現実を踏まえながらの解決策を探っていくしかなさそうです。植林活動(耐乾性、耐塩性に優れたサクサウールの木)、流域灌漑施設や運河の改良、綿花依存からの脱却(小麦等への転換)、工業設備における排水の再利用等々・・・。

私自身も10年以上にわたるこの国の開発分野との関わりの中で大量の水資源の恩恵を蒙ってきたことで、決して他人事ではない痛みを感じます。地球全体に求められている「持続可能」な発展への知恵と行動がここでも必要とされています。

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2009年1月26日 (月)

映画・『チェ 28歳の革命』

90125che3 革命家、エルネスト・チェ・ゲバラの半生を描いた二部作の前半、『チェ 28歳の革命』を観ました。1955年のメキシコにおけるフィデル・カストロとの出会いから、1956年のキューバ上陸、ゲリラ戦争を経て1959年のキューバ革命達成に至る約4年間の戦いを描いた作品です。随所に1964年の国連総会における演説の模様を挟み込むことでドキュメンタリーの雰囲気を醸し出しています。作られた英雄物語ではなく、むしろ淡々と史実を進行させていくことでチェの革命家としての生き様を描こうという製作者の意図が感じられます。その名前を聞いただけである種の畏敬の念を禁じえないゲバラ後世代のひとりとしては、彼の生き方を追体験するというまたとない機会でした。

さて、その私たちの世代にとって、当時の最大の政治的関心事といえばベトナム戦争とそれを支える日米安保体制、さらには高度経済成長にまつわる多くの歪みの問題(公害、差別、労働問題等)であり、国際的視点といってもアジア地域をなかなか超えるものではありませんでした(一部のパレスチナ問題への関与を除いて)。キューバ革命、チリのアジェンデ政権の実験、ニカラグアのサンディニスタ革命といった中南米のあまりにも激しい戦いは地理的にも気質的にも簡単には埋めることの出来ない距離を感じたものです。しかし、チェ・ゲバラが貫いた直接行動主義と理想主義は当時の新左翼陣営の行動指針に一定程度の影響を与えていたことも事実です。

尚、ゲバラはキューバ革命を果たした直後の19597月にキューバ使節団を率いて日本を訪れていました。12日間の滞在中、日本各地の工場訪問や通産・商工関係との面談を精力的に行いました。途中、抜け出して突如広島に現れ、原爆死没者慰霊碑に献花し、資料館と原爆病院を訪れています。当時の日本では知名度も低く、関心を持つマスコミもありませんでした。下の写真は、唯一取材を行った中国新聞の記者によるものです。

チェといえば、アンドリュー・ロイド・ウェバーによるミュージカル「エヴィータ」で進行役を務めていましたね。アルゼンチンのペロン政権(第一次)が1946-55年であり、エヴァ・ペロンも1952年に死去するまでは共に権力の座にありました。労働者や貧困層を支持基盤とした筈のペロン政権の変質に伴い、当時20代のチェ・ゲバラ本人も母国アルゼンチンを見切って南米各地の放浪を開始しました。あのミュージカル作品でのチェの役割には実際的な裏付けがあったのですね。

次作、『チェ 39歳の手紙』も観にいきます。

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2009年1月16日 (金)

『タイス』@METライブビューイング

90115thais4_2  遅まきながら、今シーズン最初のMETライブビューイングは美しいメロディに溢れるマスネの『タイス』でした。演出、舞台装置、衣裳、そして出演者の豪華さはさすがメトロポリタン歌劇場です。

ライブビューイングも今シーズンからは一週間を通じての上映となり、週7回とはいえ、昨シーズンの週1回だけの上映に比べれば遥かに機会が増えました。ただ、これまで通っていた「柏の葉」の上映開始時間が午前10時というのはいただけません。『サロメ』のように生首と血にまみれた女の惨劇を朝から見ようという気分にはなれないでしょう。やはりシネコンからすれば異端扱いなのでしょうか?尚、今回の『タイス』は東劇で観ました(1840分開始)。

もう一つの不満は「音響」です。さすがにドルビーサウンドではないものの、巨大スピーカーからの大音響はオペラの命ともいうべき声が割れることもしばしばです。音は大きければ良いというものではありません。

とはいっても、これまで都合6回のライブビューイングは毎回大いに楽しませてもらいました。前述したように、外面のみならず内容的にも豪華で、現代オペラ芸術の粋を聴かせ、見せてくれるからです。

さて、今回の『タイス』もその例外ではありません。この作品はこれまで上演や映像での鑑賞機会もなく若干不安だったのですが、それは全く杞憂に終わり大きな満足感を得ることが出来ました。あまりも有名な「タイスの瞑想曲」のみならず美しいアリアや重唱が多く散りばめられ、音楽そのものを大いに楽しむことが出来ます。その瞑想曲も何度か登場し、劇中でこそ美しいメロディがいっそう心に響いてきます(「私のお父さん」が「ジャンニ・スキッキ」の劇中でこそ活きてくるように)。

出演者では何といっても主人公のタイスを演じるルネ・フレミングの素晴らしさです。前にも書きましたが、彼女は年を経る毎に若返り、かつスリムになっていくようです。例えば、手元にある1994年グラインドボーンのフィガロ伯爵夫人の映像版ではむしろ実年令(当時35才?)以上に老けて見えますし、歌にも情感がこもりません。以来、この歌手への興味を感じることはなかったのですが、2007年チューリッヒの「アラベラ」で評価は一転です。何故彼女がMETの女王たる所以かを遅まきながらも思い知った次第です。フレミングは決して美声の持ち主とはいえず、歌唱のテクニックや安定性において他のソプラノたちよりも特に優れているという訳ではありません。しかし、中音域を中心とした深みのある声と表現力、更に表情や演技力から滲み出る知性によって抜群の存在感を示すのです。

相手のアタナエル役はトーマス・ハンプソンです。アメリカを代表する2大歌手による競演と豪華な舞台はこの作品がフランス製であることを忘れさせます(勿論フランス語公演ですが)。恐らくは作曲者の意図を越え、マスネのというよりはMETの『タイス』なのでしょう。それもメタボ気味(^^;)の・・・。しかし一時の悦楽を求めて劇場や映画館に足を運ぶ人々の期待を裏切ることは全くない筈です。残るライブビューイング上演も出来る限り楽しむこととしましょう。

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2009年1月 8日 (木)

『無言館』@信州上田

90107 信州上田市郊外の丘陵地に『無言館』は静かに佇んでいました。故水上勉の長男で著作家、美術評論家の窪島誠一郎氏が、絵筆を銃に持ち替えさせられた戦没画学生たちの遺作を収集し1997年に開館したものです。この地には元々窪島氏が明治以降に夭折した近代画家たちの素描を展示している「『信濃デッサン館』という小美術館が存在しており(1979年開館)、この『無言館』はその分館として開設されたものです。収集作品も増え、昨年9月には近くに『無言館第二展示館』もオープンしました(ここでは、併せて「無言館」と呼びます)。展示点数は本館が30余名、80点ほど、第二展示館20余名、約50点ほどでしょうか。

遺作や遺品については窪島氏と自らも出征経験のある画家、野見山暁治氏が戦没者の遺族を訪ね、理解と協力を得ながら蒐集されたとのことです。その際に吐露された遺族たちの想いも紹介されており名もなき若き画家一人一人の短い生の重みがいっそう強く伝わってきます。残された絵画のみならず戦場から家族に宛てた手紙や葉書の上のデッサンやスケッチ等によって、彼らが最後まで画家とあろうとした想いが伝わってきます。

絵の脇に、画家たちの出身地、享年と共に戦没地とその年月が記されています。多くが1943-1945年に戦死あるいは戦病死しています。特攻で散った者もいました。とりわけ1945年に集中しているのは敗色濃い状況下での激しくも無為な戦闘行為の結果なのでしょうか?もう少しだけ生き抜いてくれれば晴れて再び絵筆を握ることが出来た筈です。その無念さが静寂かつ底冷えのする館内でひしひしと伝わってきました。

作品について言えば、家族の肖像画や風景画が中心です。数点を除き、絵そのものから受ける感銘が大きいとはいえません。しかし、絵具の手配にも事欠く戦争という時代背景を考えたときに、彼らのキャンバスにかけた夢や想いがじわりと伝わってきます。これらの作品群や遺品類が無言で訴えるものを大切にせねばと改めて思う訪問でした。

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2009年1月 6日 (火)

2009年の始まり

遅ればせながら「あけおめ ことよろ」です。

そういえば、この簡略言葉はもう20年も前のパソコン通信時代に年越しチャット(niftyserveではRT)でメンバーが加わるたびに頻繁に使われていました。多い時には30名を越え、タイピングの遅い自分はどんどんスクロールしていく画面についていくのがやっとでした。当時のメンバーたちとは今もMLmixiblog等での交流が続いています。インターネット時代、人間関係の希薄さがよく指摘されますが使い方と向き合い方次第で温もり度が異なるのは実社会と全く同じだと思います。

下の写真は高校時代の友人S君が送ってくれたものです。正月に逗子の披露山公園から撮ったとのこと。湘南地方を離れてかなりの年月になりますが、富士山ってこんなに近かったっけ?(写真の魔術もあるでしょうけど・・・)

高校(稲村ケ崎に隠れていて見えませんが)の帰りには正面に見える江ノ島によく寄り道をしました。その右手前の小動岬の岩場を一周するのも冒険のひとつでした。最近は大学時代も含めて同窓会やら少人数での集まりも頻度を増してきました。単に昔を懐かしむのではなく、昔の友人や仲間たちから貰えるのは「元気」だということが分かる年令になってきたようです。

今年も皆さんからいただく元気を励みにマイペースでの更新を続けられたらと思います。

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