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2008年5月18日 (日)

『マティスとボナール展』@川村美術館

「地中海の光の中へ」と題したアンリ・マティス(1869-1954)とピエール・ボナール(1867-1947)展が佐倉市の川村美術館で開催されています(525日まで)。人気作家の展示だけに多くの人が訪れていました。

展示室内には眩(まやぶ)いばかりの光と色彩に溢れた全124点のコレクションが飾られていました。その殆どが人間と自然の生命力を感じさせる幸福な作品群です。想像力への力強い自信も漲っているようです。

80518   マティスといえば大作「ダンス」や切り絵の「ジャズ」など躍動感に溢れた図柄をまず思い起こしますが、今回のコレクションでは初期から晩年に至る、明確な構図と明るい色彩に縁取られた鮮やかな作品群が並べられています。右の『黄色い服のオダリスク(1937)』でも明るいトルコ風の民族衣装とエスニックな調度品が地中海の穏やかな空気を運んでくれるようです。

 

 

80518_2 一方のボナールも赤や緑の原色を基調とした鮮やかな作品群を描いています。風景画はどことなくセザンヌを思わせるところもあり、「最後の印象派」とも呼ばれる所以がそこにはありそうです(一方、マティスは「最初の現代画家」と呼ばれているとか?)。晩年の作品群では自らの色彩感覚を優先し、赤く染まった田園風景なども描いています。 左の『花咲くアーモンドの木(1947)』は死の3日前まで描いていた作品とのことです。色彩と生命力に満ちた一生だったのですね。

 

 

川村美術館の庭園は今、新緑に溢れています。館内の明るい地中海の色彩の渦から解放されると、鮮やか新緑が目に飛び込んできて気持を癒してくれます。この美術館は都会の喧噪から遠く離れていることも魅力のひとつです。

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2008年5月12日 (月)

『連隊の娘』@METライブビューイング

80510regimon 今シーズンのMETライブビューイングも最終回となってしまいましたが、ナタリー・デセイを始めとする出演者たちによって最高のパフォーマンスを楽しませてくれました。「連隊の娘」はドニゼッティの他のブッファ(喜劇)作品、「愛の妙薬」や「ドン・パスクワーレ」と同様に軽妙さと洒落っ気に溢れるだけでなく、美しいベルカント・アリアも満載の作品です。

この舞台の盛り上がりがN・デセイの快演・怪演にあることは論を待ちません。自分でもオペラ「女優」であることを公言して憚らない彼女ですが、一方で世界屈指のコロラトゥーラの声と技術にもただ感嘆させられるばかりです。最後には息切れ気味になるまで舞台を縦横に動き回っていました。インタビューで「観客席から笑い声が聞こえるのが嬉しい」と答えていましたが、演技への執念には凄味さえも感じます。それはコメディ作品に対してだけでなく、ルチアや「ハムレット」のオフェリアの悲劇的な狂乱場面では一層の迫真の演技で観る者を圧倒します。

手元にある「連隊の娘」はスカラ座の映像盤(1996年)です。M・デヴィーアが美しくも正確無比のベルカントを聴かせてくれます。年令にもめげず、一生懸命コメディンヌを演じるところがいかにも真面目なデヴィーアらしいところです。デセイはそんなデヴィーアの壁をいとも簡単に乗り越えてしまいます(元々のキャラクターの違いでしょうが)。この演出と映像の時代、演技力に優れたオペラ歌手は大勢出現していますが、デセイの場合はあまりにも飛び抜けた存在であることを今回改めて思い知った次第です。

一方のファン・ディエゴ・フローレスのテノールの輝かしい美声には男性である僕もただ聞き惚れるだけです。しかし、あのナルシストぶりはどうにかならぬものかとも思ってしまうぞ・・・。舞台でほとんど動かず、もっぱら自分の出番のために力を蓄えるというのもベルカント歌手こその特権かもしれません。

A・コルベッリやF・パーマーといったベテラン助演陣もすでに多くのブッファ役でお馴染みです。パーマーは先日の『ピーター・グライムス』でも好演していましたね。

ローラン・ペリーの演出は一連のオッフェンバックの作品(「天国と地獄」「美しきエレーヌ」「ジェロルスタン大公妃殿下」)でのバレエ要素を取り入れた大胆な演出に比べるとオーソドックスでした。

マルコ・アルミリアートという指揮者は初めて聴きますが、ともすれば鳴り過ぎるメトのオケを如何にもドニゼッティらしく軽妙に歌わせていました。好感度大です。

ついに今シーズンのMETライブビューイングも終わってしまいました。簡単にはMETに飛んでいけない身分にとってはとても嬉しい企画でした。今回観た5作品(『ヘンゼルとグレーテル』『マクベス』『ピーター・グライムス』『ラ・ボエーム』そして『連隊の娘』)はどれもがとても楽しむことが出来ました。早くも来シーズンが楽しみです。ゲオルギューの『つばめ』、ネトレプコの『ランメルモールのルチア』、デセイの『夢遊病の女』、そして、やったぁ!ガランチャの『チェネレントラ』・・・どれも見逃せません。ん?やっぱり「オジ・ファン・トゥッテ(おじさんは皆こうしたもの)♪」です(^^;)

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2008年5月11日 (日)

初夏のタシケント

モスクワからタシケントに飛びました。モスクワの南にあるドモジェドボ空港のターミナルは内外共にすっかり新しくなっており、その機能と装いはまるでヨーロッパの都市空港のように現代的なものでした。かつてソ連時代にはこの空港では何度も出発遅延のために貧弱なロビーで夜を明かしたことがあり、それを思い出すと隔世の感があります。シュレメティボの第3ターミナルも早く完成させてもらいたいものです。今のシュレメティボは大国ロシアの表玄関としてはあまりにも不便かつ貧弱ですね。

まるで死の大地のようなキジルクム土漠の上空を通過して水と緑の溢れるタシケントに到着すると心なしかほっとします。80507tashkent_2 今回の短い滞在期間中はほとんど打ち合わせと仕事漬けでした。写真は客先オフィスからから眺めるビジネス地域です 。緑が豊富でしょう?

最終滞在日の59日は旧ソ連邦の休日でした。モスクワでは対ナチ「戦勝記念日」として華々しい軍事パレードが行われたようですが、この国では「戦没者Memorial Day」として穏やかに過ごすだけです。むしろ9月のソ連邦からの「独立記念日」に華々しい式典が行われます。かといってロシアとの関係は良好であり、したたかな外交戦略を継続いています。様々の資源開発プロジェクトをロシア、韓国、中国、マレーシアなどの企業と共同で開始していますが、日本の企業群はまだ投資には及び腰のようです。日本企業はリスクに慎重であるだけではなく、やはり地理的な距離感もありすぎるのでしょうか?

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2008年5月 5日 (月)

モスクワ短信

数年ぶりのモスクワは相変わらずの車の渋滞と無秩序な街の発展に辟易とさせられます。空港からしばらく続く新緑の爽やかさも中心部に入ると共に薄れていきます。この国の5月は黄金の秋と共に最も美しい季節なのに・・・。街の表向きの華やかさの裏側に権力と金への信仰、格差、不安定さといったものを感じます。未曾有のエネルギー(天然ガス)輸出景気の中で消費と金融だけが拡大してゆくツケがいつ回ってくるのでしょうか?

この国を初めて訪れた30年前は東西間の雪解け関係も次第に軌道に乗りはじめた頃のソ連邦の時代でした。相変わらずの官僚主義と不便さには何度も泣かされましたが、人々は親切、素朴で、街は安全でした。その後、ペレストロイカやソ連崩壊といった大変動を経て、この国は大きく変わりました。ソ連邦崩壊直後の犯罪と物乞いが街に溢れていた苦難の時代は乗り越えましたが、今のような金と力がものを言う社会への変貌への違和感は拭い去りません。

今回は通り過ぎの滞在でしたが、ホテルの窓から眺めるモスクワ川の風景がほとんど変わっていないのは救いでした。

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2008年5月 3日 (土)

渡良瀬川流域行(その2)渡良瀬遊水池

足尾から渡良瀬川沿いに草木湖、桐生、足利、佐野と下り、渡良瀬遊水池に至りました。鉱毒事件に最後まで抵抗し、ついには滅亡した谷中村の地です。

現在の渡良瀬遊水地は群馬、栃木、茨城、埼玉の4県にまたがる広大な敷地(33km2、山手線の内側面積の約半分)を有し、人造の谷中湖、葦とヨシの生い茂る湿地帯は多くの野鳥や植物の生息する地となっています。公園や人の入り込める区域はよく管理されていて、自然愛好者や家族連れにとっての貴重な憩いの場所となっています。

旧谷中村跡は谷中湖の脇にひっそりと佇んでいました。80502_3 村役場跡、共同墓地跡、寺社跡などにかつての面影を僅かに留めているだけです。荒畑寒村は、谷中村に住みついた田中正造が買収工作に訪れた栃木県庁の吏員と護衛の巡査に『この村泥棒め!』と大喝して追い出した場面を書き残しています。谷中村滅亡から90年の歳月を経て、このようなエピソード場面を想像するにはあまりに明るい公園地区に生まれ変わっていました。

域内の案内板(国交省の地方機関?)には遊水地建設の背景として『足尾では銅の精錬に必要な木炭を得るために山林の乱伐を重ね、その結果、水源の山々は保水力を失い、頻発する洪水によって鉱毒が流れ被害が拡大した』とありましたが、ここには明らかな事実の歪曲があります。山々が枯れたのは乱伐によるものではなく、精錬所からの亜硫酸ガスによるであることは(その1)に書いた通りです。事実を捻じ曲げてまで当時の精錬所と古河資本や政府の環境破壊責任を半減化させようとしていることにむしろ足尾鉱毒事件の現代への連続性を感じます。

それにしても広大な遊水地を確保したものです。表向きの名目は洪水対策と首都圏への安定水供給とのことですが、実際には鉱毒物質の沈殿と被害者の地域からの強制排除も目的でした。さすがに上流の堆積場から流れてくる鉱毒量は減少したとのことですが、遊水地の土壌には今でも他地域に比べて多くの銅、カドミウム、ヒ素等が含まれているとのことです。ちなみに1972年には足尾からの銅とカドミウムが太田市毛里田地区の水田を汚染し産出米の出荷が凍結となる事件もありました。足尾鉱毒問題は半永久的に終わらないのです。

その後古河鉱業は、枯れ山と化した足尾の後始末は自治体やNPOに任せ古河機械金属、古河メタルリソース等へと組織変更、分割を経て、今ではカナダやインドネシアでの鉱山事業に取り組んでいるようです。古河機械金属グループの2007年環境報告書には足尾でのNPOによる植林事業への協力が僅かに述べられているだけでした。80502_2

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2008年5月 2日 (金)

渡良瀬川流域行(その1)足尾精錬所跡

80501 先日のドキュメント映画、『赤貧洗うがごとき』に触発されて、一泊二日の渡良瀬川流域小旅行に行ってきました。最初に訪れた足尾はまさに「百聞は一見にしかず」でした。足尾といえばトロッコで入る坑道見学コース(銅山観光)が有名ですが、本当に訪ねるべきはそこから更に数キロ遡った「足尾銅精錬所跡」と「松木渓谷」に尽きます。

古河鉱業足尾精錬所が閉鎖されたのは意外と最近の1989年のことです(開業は1884年)。足尾銅山は1971年に閉鎖されましたが輸入鉱石での精錬を続けていたとのことです。現在は写真で見るように無残な廃墟と化していました。閉鎖後20年が経つというのに古河鉱業は何故工場を撤去しないのでしょうか?撤去費用の問題?あるいは環境(公害)遺跡としての保存の動きゆえ?町には「足尾銅山を世界遺産に」という運動もあるようですが、この精錬所跡と松木渓谷こそは、そこから多くを学ぶべき負の環境遺産としてぜひとも残す価値があると思います。

この精錬所から排出された亜硫酸ガスによって周辺の山林は全滅し、今でも赤茶けた山肌がその凄まじい環境破壊力を物語っています。特に、渡良瀬渓谷の上流の松木地区では南風によって渓谷が煙道と化し、大量の有毒ガスに襲われました。40戸、267名の松木村は救助嘆願、訴訟にも拘らず1902年(精錬所操業開始後16年)に廃村となりました。

80501_3 その松木渓谷を入り口から眺めて驚きました。周囲が一面、無人の荒れ果てた山なのです。「日本のグランドキャニオンへようこそ」という観光誘致の看板が立っていましたが悪い冗談としか思えません。一部ではNPOによる植林も進んでいるようですが、まばらです。

こうして周辺が禿げ山となったことにより、大雨の際の洪水と工場からの銅堆積物の流出が重なり、渡良瀬川下流域の鉱毒問題が発生するのです。これまで、足尾鉱毒事件といえば下流の谷中村の滅亡や田中正造の運動が主に採り上げられてきましたが、この松木村での煙害問題こそが最初の被害の出発点だったのです。

一地域の人命や環境の保全よりも国家戦略としての産業や軍事が、また戦後に至っても高度経済成長が躊躇なく優先された時代に比べ、確かに、現代日本においては目に見える形での「公害問題」は激減しました。しかし、一方で今もなお各地で繰り返されているダム建設問題、道路建設問題等々の巨大公共事業と地球環境を併せ考える時、果たして私たちは本当に賢くなったのだろうか?という疑問を持たざるをえないのです。そんな時、この足尾を訪ねて、精錬所跡と松木渓谷の無残な姿を目にすることで何かヒントを得ることが出来るのではないでしょうか。

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