片島紀男著・『トロツキーの挽歌』
私は別にトロツキー主義者でもなければ、その思想の理解者でもありません。しかし、新聞でこの本の表題を見て反射的にamazon.comから取り寄せたのは、意識のどこかに、この稀有の革命家への畏敬の念があるからでしょうか。
1956年のフルシチョフによるスターリン批判によって、スターリンが社会主義というものをいかに血生臭く変質させたかということがソ連邦自身によって明らかにされました。またペレストロイカ以降に、多くのスターリンによって粛清された革命家たちが政治的名誉を回復しました(その命は戻りませんでしたが)。トロツキーについての再評価に関しても機運は高まったものの、ソ連邦の崩壊により正式な国家としての名誉回復までには至りませんでした。
この本はトロツキーのロシア革命に果たした決定的な役割や思想的成果、変遷を述べた論文ではありません。追放、そして亡命以降、メキシコでの暗殺に至るまでの、家族や支援者たちとの愛憎や葛藤を中心にした「人間」トロツキーを描いたものです。著者(NHKに在籍していたことには驚き)の彼への哀惜の思いが「挽歌」のタイトルの下に丁寧に綴られており、挿入された多くの写真にも大いに興味は惹かれたものの、「今、なぜトロツキーなのか?」という疑問への答えは見つかりませんでした。
尚、トロツキーの伝記としてはI・ドイッチャーの「武装せる・・」「武力なき・・」「追放された・・」の「予言者」三部作があまりに有名です。歴史的興味により、かつて読破を試みたもののあまりの長大さ故に中断したままになっていました。
暗殺の半年前に彼は「遺書」を書いています。その末尾は次のように記されています。
「生は美しい。未来の世代に属する人たちが、人間の生活から、すべての悪、すべての抑圧、すべての暴力を拭い去り、そしてその(生の)全てを享受するように・・・」
権力の座から追われ、反対派としての立場ゆえにこそ書ける文章とはいえ、ここに彼の一貫した理想主義と美学が表れています。もっとも、ロシア革命時、レーニンと共に組織の頂点に在ったときにはその権力の行使に躊躇はありませんでした。歴史に「もし」のないことが、今なお、トロツキーの理想主義や国際主義を現代世界の潮流の中で、スターリン主義よりも人間的精彩を帯びて生き永らえさせているのかもしれません。
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コメント
先日は 楽しいお話をありがとうございました
幅広い内容ですね
また ちょこちょこのぞきに来ますね
お店でもお待ちしております♪
投稿: lovebabo | 2007年10月22日 (月) 14時25分
lovebaboさん、
早速のご訪問ありがとうございます。雑多な記事の羅列ですが宜しくお願い致します。そういえば、この品揃えは「Gollista」に似ているかも(^^;)。店長さんに宜しくお伝え下さい。
投稿: YASU47 | 2007年10月22日 (月) 22時23分
僕は世代的にもマルクス主義というものにはさほどシンパシーを感じたことがないのですが、革命家という人たちの人生ドラマには魅かれる部分もあります。 ゲバラの半生が映画化されたりしてますもんね。
> 「今、なぜトロツキーなのか?」という疑問
最近やっと不人気になってきたとはいえ、ここんとこ数年間アメリカ政治を牛耳ってきたネオコンの思想的源流としてのトロツキーに注目が集まってるのかもしれません。
投稿: | 2007年10月29日 (月) 14時17分
↑ あ、名前書き忘れちゃった・・・^^;
投稿: こだま | 2007年10月29日 (月) 14時18分
こだまさん、
世代的にいえば、ゲバラとトロツキーは僕ら団塊の世代の一部の人々にとっては教祖的存在であったのかもしれませんね。
「ネオコンの思想的源流としてのトロツキー」というのは初耳です。どこかでそのように述べられていたのですしょうか?確かに、トロツキー主義はその後、現代でもヨーロッパとラテンアメリカの民衆運動や左翼運動の中で息づいているようですが、その基本は国際主義であり、ネオコンとは相容れないものだと思いますが・・・。
投稿: YASU47 | 2007年10月29日 (月) 22時29分