2006年オペラ座『フィガロの結婚』・ここでもケルビーノ
2006年パリ・オペラ座(ガルニエ宮)の『フィガロの結婚』の映像がDVD化されています。同じ年のザルツブルグ音楽祭での『フィガロ』はグートによる意味深な演出とネトレプコを始めとする豪華な出演者たちとで評判となりましたが、このパリ・オペラ座での舞台も負けずに興味深いものがあります。
演出はザルツブルグ以上に現代化に徹しています。1990年のP・セラーズ演出と類似していますが、あのような低品格なものではありません。一方、ザルツブルグ演出との差は特別な「主張」や「意味付け」がないことでしょうか。舞台を現代(それも市役所の一室とのこと)に置き換えることで台詞との不整合はあちこちに出てきますが確信犯的にお構いなしです。舞台はコメディ要素の維持を最優先しているようです。この楽天さは余計なことを考えさせず、かえって好感が持てます。
S・カンブルランという指揮者は初めてですが、いかにも職人芸的に劇場付きオーケストラからメリハリの効いた活気ある音を引き出しています。
伯爵夫人(C・エルツェ)とスザンナ(H・G・マーフィー)の両ソプラノには不満です。時折り、歌唱の粗さが耳につきます。特に伯爵夫人にはしっとりした味わいと稟とした姿勢が欲しかったものです。一方、伯爵(Pマッティ)とフィガロ(L・レガッツォ)に不満はありません。
素晴らしかったのは、ここでもシェーファーのケルビーノです。 ザルツブルグと同様に知的だけれど冷たくない・・・、精緻で柔らかいノンビブラート歌唱はまるで極上のリートを聴くようです。ちょっと蓮っ葉な少年を演じるシェーファーはザルツブルグ以上にコミカルな演技力も発揮しています。これまで、ケルビーノといえば典型的なメゾのズボン役という先入観念がありましたが、ザルツブルグ、オペラ座と続く舞台によって今やシェーファーが最上のケルビーノであることは疑いがないようです。
小柄なシェーファーのケルビーノにいっそう小柄なバルバリーナがぴったりと付き添います。カサンドラ・ベルトン・・・どこかで観たことがあると思ったら、そう、ミンコフスキの「天国と地獄」で悪戯な天使キュピドン役を達者に演じていたあの小柄なソプラノです。他の脇役たちも含めて芸達者たちが揃っています。
理屈は取り除き、単純に明るく演出されたフィガロ・・・はモーツァルトの現代化にあたっての指標のひとつと言えるでしょう。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
こちらでは、始めまして。オペラと日本国憲法をともに愛する素敵なブログですね。御指摘のように、『フィガロ』の舞台設定を現代化したこのDVD、なかなか味があります。P.セラーズの"アメリカの高層アパート版"が気に入らなかったので、この戸籍役場(Standesamt / Etat civil)という設定が面白いと思いました。そして、おっしゃるように、シェーファーのケルビーノ像は、なるほど画期的なものですね。今までは何となく"宝塚的"なケルビーノが普通で、私もそれを当然のように思っていました。
ところで、DVDの解説付きリストは充実していますね。映像も音も良好なものが紹介されていて、参考になります。私は『フィガロ』は、少し古いもので、映像も音も最善ではないが、(1)1973年のグラインドボーン音楽祭、(2)1980年のパリオペラ座、なども気に入っています。前者は、若き日のテ・カナワとコトルバシュ、後者はポップが特に好きです。
今後とも、YASU47さんの「オジ・ファン・トゥッテ」楽しみにしています。
投稿: charis | 2007年5月14日 (月) 07時28分
charisさん、こんばんは。
オペラと憲法という、どうみても消化に悪そうな組み合わせのごった煮blogですが宜しくお願い致します。
charisさんのblogとHPにもお邪魔しましたが、難しいご専門なのですね。哲学といえば遙かに昔の学生時代、「ドイツイデオロギー」やら「経哲手稿」等々を一生懸命理解しようとしたっけなぁ・・・。今や唯物史観は死語なのでしょうかねぇ・・・。
「これまでのケルビーノは宝塚的」というのは面白い表現ですね。シェーファーにはついでに画期的な少年オクタヴィアンも演じてもらいたくなりました。
投稿: | 2007年5月14日 (月) 22時45分
いや、オペラと日本国憲法はそんなに相性が悪くありません。美と幸福と平和は、何か他の目的を実現するための"手段"ではなく、それ自身に価値があるからこそ、最高に大切なものなのです。秀才とか、偏差値とか、権力とか、お金とかは、すべて"手段"としての価値であり、美、幸福、平和などの価値には到底およびません。
私も学生時代は『草稿』や『ド・イデ』をむさぼり読みましたが、当時の私たちが惹かれたのは、たぶん、マルクス主義や現存する社会主義ではなく、たまたま歴史的には"情熱"がそのような形態を取ったとしても、その背後にある普遍的価値に惹かれたのだと思います。ですから私にとって、オペラ、平和、日本国憲法を愛することは、まったく同じ一つの態度だと思っています。
投稿: charis | 2007年5月15日 (火) 01時14分
charisさん、
ふむ、好きだからこそ、大事だからこそ、そこに当人にとってのかけがえのない価値が存在するのでしょうね。でも、世の中には権力やお金を愛する人も多いんだろうなぁ・・・。
当時、『ド・イデ』をどこまで理解出来たのかは分りませんが、これらの諸作品や解説書、議論などがその後の生き方や考え方の大きな指針となったのは事実です(今でも引きずっている・・・と思う)。
さて、「フィガロ」もP・マルシェの原作では階級社会風刺とのことですが、流石に現代では、そのような演出は見たことはありませんね。ラストの「許し」が主な主題になっているものが多いように感じます。せめて「フィガロ」を観るときには頭の中を空っぽにしてモーツァルトの音楽に浸りたいものです。
投稿: YASU47 | 2007年5月15日 (火) 22時31分