« 2007年2月 | トップページ | 2007年4月 »

2007年3月25日 (日)

(続)八千代・9条の会『2周年記念行事』

今日は「八千代・9条の会」の2周年記念行事が行われました(「9条の会」についてはすでに何度か紹介していますので省略します)。雨にも拘らず140名の市民が集まりました。内容は映画「戦争をしない国」の上映と岩橋弁護士による「改憲手続き法案とは」という学習講演でした。

映画「戦争をしない国」は、憲法第9条「戦争の放棄」が戦後60年にわたって戦争への直接参加を阻む抑止力として働き、平和を望む国民によって守られてきたという歴史を描いたドキュメンタリーです。70325 当事は小学生ながら、社会が騒然としていたという記憶が残る60年安保闘争、自分自身が政治の渦に巻き込まれたベトナム反戦と70年安保闘争等々の諸場面がフィルム上に甦ってくると、その時代毎の国民たちが身体を張って守り抜いてきた平和憲法の崇高な価値というものを改めて思い知らされます。

岩橋弁護士による講演は今、国会にて継続審議されている「国民投票法案」の問題点を判りやすく説明したものでした。余程、ニュースや新聞を注目しないと議論の焦点がどこにあるのか見えにくい提案となっており、理解のために良い機会となりました。ここで、主なポイントだけを列挙してみましょう。

(1)  過半数の定義

    現憲法(96条)では憲法の改正は「国民投票において過半数の賛成を必要とする」との定めがありますが具体的方法は規定されていません。国民の絶対過半数なのか、投票数の過半数なのか、有効投票数の過半数なのかが焦点です。自民党案では最低投票率の制限もないため、例えば、40%の有効投票率の場合、国民の20%の賛成でも憲法が改定されてしまいます。このような重要な直接選挙の場合は最低限でも最低投票率の規定はあってもしかるべきではないでしょうか。

(2)  一括投票か個別投票か

   国民の意志が適切に反映されるためには項目毎の個別投票が必要ですが、自民党の提案は「関連する事項は一括」となっています。

(3)  有料広告

   投票日の一定の期日までは自由との自民党案です。これでは金で世論操作が可能となってしまいます。

他にも無料広告、広報協議会、公務員及び教育者の運動規制といった項目で改憲側に都合の良い提案がなされています。自分自身も含めて、国会への注目と監視を怠ってはならないことを改めて認識しました。

さて、ついにイラクへの自衛隊派遣という事態を許してしまいましたが、それを追認し、固定・拡大しようというのが、今回の憲法改定の狙いであることには論を待ちません。自民党の改憲案では、『自衛軍は(「軍」ですよ!)、国際社会の平和及び安全の確保のために国際的に協調して行われる活動を行うことが出来る』と明記しています。すなわち、国連の決議がなくとも、今回のイラクのように米軍の同盟軍としての戦争参加を可能にするのです。米国は第2次大戦後もベトナム、中米、ソマリア、イラクをはじめとして60以上の国に対して戦争あるいは軍事介入をしてきました。こんな好戦的な国と同盟の契りを深めようというのですから危険なことこの上もありません。

自民党案では第9条のタイトルを「戦争の放棄」から「安全保障」に変更しています。真の安全保障とは何かをじっくりと考えてみたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月22日 (木)

映画『ナイト・ミュージアム』

これぞB級(失礼!)SF娯楽大作という映画を見ました。最近の映画には疎いので、監督や出演者たち(ロビン・ウィリアムス以外の)に関する知識はありませんが、頭の中を空っぽにして大いに笑える作品は楽しいですね。まず、ティラノザウルスの化石が無邪気にボールならぬ骨投げ遊びをせがみ、モアイ像の好みが風船ガムというところで笑いのツボを掴み取ります。いかにもハリウッド作品らしく、コメディ要素としては大雑把なところも多く、恐竜時代から古代、中世、近世に至る歴史上の人物たちがオンパレードというごった煮作品です。一歩間違えれば単なるドタバタ劇の駄作になるところを、とことん楽天的な作りで痛快な作品となりました。余計な理屈は忘れて楽しむが勝ちです。70321night2

SFXを多用したコメディとしては、古くは「グレムリン」「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」「ゴーストバスターズ」から「マスク」「MIB」などが思い浮かびますが、僕の最も気に入っているのは、「マーズ・アタック」でしょうか。J・ニコルソン、G・クロース、MJ・フォックスといった名優たちを揃えながらも、意図的にB級的な作りを行ったSFブラック・コメディの大傑作でした。

今回の「ナイト・ミュージアム」にはそのような毒はなく、とことん善良な意図をもって作られています。物足りなさは若干残りますが、楽しければ善しとしましょう。

尚、映画の予告編と詳しい紹介はココです。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年3月17日 (土)

エクサン・プロヴァンス音楽祭『コジ・ファン・トゥッテ』

グラインドボーンザルツブルグに続く、『コジ・映像シリーズ』(いつの間に始まったのだ?)の第3弾は2005年エクサン・プロヴァンス音楽祭です。最近、何かと話題のエクサン・プロヴァンス、シェロー演出、ハーディング指揮、更に大物たちの出演ということで期待は大きかったのですが、重たさと暗さではザルツの『フィガロ』に負けないシリアスな演出に若干辟易です。「コジ」といえば、美しい重唱とウィットに満ちたアンサンブルに浸りたいのですが、パトリス・シェローの演出はこの台本を真正面から捉えた破局ドラマとしました。70317coci

舞台を中世集合住宅の中庭のような空間に設定し、主人公を原作のナポリの令嬢、すなわち、多少、天然の入った世間知らずのお嬢様姉妹という設定から外したことでシリアスドラマが始まっています。コメディ色は消えて、まるでイタリア・ヴェリズモのようです。例えば、最終場でワイングラスを傾けながら過去への別れを歌う場面では(モーツァルトは何と美しい曲を書いたのでしょう)、2組のカップルが決して元には戻らないことをリアルに決定付けています。他の多くの舞台では四重唱の妙を優先することで、カップルの行く末は未だ曖昧にしているように感じます。この舞台ではどの場面でも、音楽が演出に従属しているようです。モーツァルトが果たして望んだことなのでしょうか?

本来ならばアンサンブルの一翼を担うべき、アルフォンソにR・ライモンディ、デスピーナにB・ボニーという超大物を配したことにより、全体のバランスが壊れてしまったように思えます。二人とも、狂言役にも拘らずヴェリズモ演出のせいで、しかめっ面に終始しています。特に、ボニーには年齢を超える魅力を発揮してもらいたかったものです(例えば、ポネル演出の映画版で、やはり年齢を重ねたストラータスのコメディエンヌぶりは爽快でした)。

フィオルディリージのE・ウォールという歌手は初めてですが、歌唱にも舞台姿にも特に魅力は感じませんでした(と、二人の士官たちと共に簡単に切り捨て(^^;))。あまりアンサンブル向きではないようです。

ドラベッラのE・ガランチャはこの舞台で唯一精彩を放っていた存在と言えます(単なるひいき目(^^;)?)。メゾ歌手たちの中でもとりわけ重たく深い声質を持つガランチャは元々ドラベッラにはあまり相応しいとは思えませんが、今回のドラマ性の高い演出ではその美しく翳りのある容貌と相俟ってひときわ魅力的でした。尚、昨年暮れに「アリア・カンティレーナ」というファースト・ソロアルバムが発売されています。キルヒシュラーガーやカサロヴァといった軽いメゾに慣れた耳には、まるでアルトにも聞こえるガランチャの低音域の深さに驚かされたものです。

ということで、この映像盤はかなり特異な「コジ・ファン・トゥッテ」です。これまでの「コジ」に飽き足らない方とガランチャのファンにはお奨めです。

| | コメント (14) | トラックバック (2)

2007年3月 3日 (土)

ザルツブルグ音楽祭『フィガロの結婚』

ガラ・コンサート」、「ドン・ジョヴァンニ」、「コジ・ファン・トゥッテ」に続く2006年ザルツブルグ音楽祭の映像第4弾は話題作「フィガロの結婚」です。ネットからのダウンロード映像(ご~けんさん、ありがとうございました!)で内容はすでに把握していましたがHi-Vision放映を機にレビューを掲載してみます。

さて、この「フィガロ」の演出、どうも気に入りません。70303figaro 考え抜かれた上での、十分に計算されたシリアスな演出なのでしょうが、この作品に期待するのは心理劇ではなく、音楽の愉悦とスリリングなアンサンブルです。演出ではそれらをどこまで徹底出来るかを競ってもらいたいものです。で、あの邪魔な天使の役割は何?愛の引き裂き役?伯爵がいつもハンカチで顔を拭っているのは単なる汗かき?ニコリともしないフィガロは使用人には見えないよなぁ。望むべくは登場人物たちの心理描写などよりも心の機微に満ちたモーツァルトの音楽です。

また、アーノンクールとVPOの演奏も全般的に遅く、重いものになっています。演出に見合った演奏という意味では止むを得ないのかもしれません。歌唱も含めて音楽自体は実に「立派」です。

さて、主演者たちはとても豪華です。しかし、まずネトレプコ(スザンナ)の声はこの演出だからこそ全体の重さの中に調和をしているようですが、容姿も含めてスープレット役には似合いません。やはり彼女にはプリマドンナ作品が似合うようです。歌の巧いレシュマン(伯爵夫人)には期待をしていたのですが声が乾き気味で、力任せになってしまい、しっとりとした味わいが失せているように感じました。

で、素晴らしかったのはあちこちでも書かれているようにケルビーノのシェーファーです(8年来の贔屓も入っていますが(^^;))。第2幕のアリア「恋とはどんなものか」の情感に満ちた柔らかさなどは極上のリートを聴くようです。表情や身のこなしも能動的で、ケルビーノに相応しい中性的な魅力を振りまいています。

スコウフス(伯爵)とダルカンジェロ(フィガロ)はまるで地獄落ち寸前のジョヴァンニとレポルロのコンビのような陰鬱さです。元々愉悦感を与える役柄ではありませんが(そう言えば、この作品には脇役を除いて甘口のテノールがいない)、いっそうの暗さには閉口します。

マクロックリン(マルチェリーナ)は、かってスザンナ役で一世を風靡していました。アバド指揮のウィーン歌劇場盤(1991/LD)ではにこやかな笑顔を振りまいていました。年月の無情を感じます。

手元にある「フィガロ」の映像を前回の「コジ」と同様に5段階評価付きで列挙してみました。(リストは左から指揮者/演出/劇場/伯爵夫人/スザンナ/上演年の順です。)

評価基準は、(1)引き締まった演奏、(2)スリリングなアンサンブル、(3)明るい舞台とスピーディな演出、(4)伯爵夫人にしっとりとしたモーツァルトソプラノ、(5)活気のあるスザンナ、(6)コケティッシュなケルビーノ、(7)魅力ある脇役たち(特にマルチェリーナ)、(8)名画「ショーシャンクの空に」を思い起こさせる「手紙の歌」、(9)理屈っぽくないこと、そして何といっても(10)モーツァルトを聴く歓びを与えてくれること・・・です。

☆☆☆☆☆

アーノンクール/フリム/チューリッヒ/メイ/レイ(1996

☆☆☆☆

バレンボイム/ラングホフ/ベルリン国立歌劇場/マギー/レシュマン(1999

ガードナー/シャトレ座/マルチンペルト/ハグリー(1993

☆☆☆

アーノンクール/グート/ザルツブルグ音楽祭/レシュマン/ネトレプコ(2006

ヤーコブス/マーティノティ/オーケストラ・ケルン/ダッシュ/ジョシュア(2004

☆☆

アバド/ミラー/ウィーン国立歌劇場/ステューダー/マクロックリン(1991

ハイティンク/メドキャフ/グラインドボーン音楽祭/フレミング/ハグリー(1994

スミス/P・セラーズ/ウィーン交響楽団/ウェスト/オンメルレ(1990

ちなみに、寸評は以下のページに記載しています。

http://www.d1.dion.ne.jp/~kawaiys/sub39.htm

| | コメント (8) | トラックバック (2)

« 2007年2月 | トップページ | 2007年4月 »