2022年4月26日 (火)

ウクライナ戦争とマフノ運動

Ktktktshop_2022022105314600311-1 止まらない民間人の犠牲に耳を塞ぎたくなるような報道が続くウクライナの戦争に微かな既視感を抱き、本棚の奥に眠っていた『知られざる革命~クロンシュタット反乱とマフノ運動』(現代思潮社1966)を50年ぶりに読み返してみました。そもそもこのシリーズには『カタロニア賛歌』『ハンガリア1956』『報復~サヴィンコフ、その反逆と死』といった著作が並び、出版側の立ち位置は明確です。

 さて、舞台はウクライナ東部、今まさにロシア軍との激しい攻防戦が行われている地域です(現在の地名で言えばザポリージャ、マリウポリ、ドニプロペトロフスク、等々)。指導者のネストル・マフノはロシア革命直後の1918年から1921年にかけて農民軍を組織し、この地域一帯でアナキズム運動を展開しました。デニーキン、ウランゲリらに率いられた白軍、モスクワのボリシェヴィキに率いられた赤軍、そして土着のマフノ農民軍が三つ巴の激しい戦いを繰り広げ、ついには規律と戦闘力に勝るボリシェヴィキが最終的な勝利を収めます。何よりも自治を尊重し、支配権力や権威という概念そのものを否定するアナキズム運動の脆弱さが、最終的に権力の奪取を最優先課題としたボリシェヴィズムに敗北したものです。

 今回のウクライナ東部での戦いにマフノ軍を重ね合わすことはさておき、同じモスクワの支配下にある今のロシア軍とかつてのボリシェヴィキ軍とを重ね合わせことにそれほど無理はありません。そもそも赤軍というルーツが同じです。但し、今回の侵攻の切っ掛けがNATOの東方拡大に迫られたプーチンの反撃であり、一方、レーニンらかつてのモスクワ指導部の目論見は革命領域の積極拡大であったという基本的な違いがあります(プーチンが求めるロシアの安全保障は領土的な「野心」とは無縁と考えます)。しかし、戦いの終盤に陥ったマフノ軍の絶望的な状況と、現在の東部戦線の状況を重ね合わせると暗澹たる気持ちにならざるを得ません。マフノの闘いにおいては、権力や権威を否定するアナキズム運動が権力志向のボリシェヴィズムに敗れました。ウクライナ戦争では米国とNATO側の武器が流れ込むことで、ますます代理戦争化しています。勝者はなく、焦土化した土地、数えきれない墓標と疲弊した人々だけが残ってしまうのでしょうか?

 著者のヴォーリンはマフノの幕僚を務めていただけに立場は鮮明です。アナキスト運動による自治を過分に評価し、一方で、白軍やボリシェヴィキによる暴力や残虐性は強調され過ぎているきらいはあります。その辺りは割り引いて読む必要もあるでしょう。しかしながら、今回のウクライナ戦争を通じて、かつてこの地で確かに存在した歴史のひとコマとその意義を思い起こすことも無駄ではないように感じました。

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2022年2月27日 (日)

ロシア軍のウクライナ侵攻に想う

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2月24日のロシア軍によるウクライナ侵攻から4日が経ちました。ロシア軍は圧倒的な軍事力とNATO側の直接介入を受けないという地政学的な有利さにより早くもウクライナ全土を席巻しようとしています。全土を支配下に治め、ゼレンスキー政権を放逐するのも時間の問題のようです。しかしながら、すでに多くの識者が言われているように、この侵攻はプーチン政権にとっては「終わりの始まり」となるであろうという予感を強くしています。

ロシアとは長らく仕事上の付き合いを重ねてきました。1976年の最初の訪ソ以来、2018年までの間に数多くの訪問と通算数年間にわたる滞在を通じて、ブレジネフ時代に始まり、アンドロポフ、チェルネンコ、ゴルバチョフ、エリツィン、プーチン政権時代と変遷を重ねてきたこの国とそこに住む人々を間近に眺めてきました。

私が接してきた多くのロシア人たちは素朴さと善良さ、そして優しさと親切さに溢れた人々です。仕事相手とは交渉中に対立・激論することもしばしばありましたが、妥協を知り、双方の面子を尊重し、常に友好を心掛ける人々でした。

今回の出来事にあたっても、プーチン支持層と一部保守派を除いて、圧倒的大多数のロシア人たちが本気で平和を願っていることには疑いの余地はありません。

今、ロシア国内の侵攻反対デモは押しつぶされていますが、これからウクライナ支配が長期化や暴力の応酬といった泥沼に陥った場合のロシア市民の厭戦気分の矛先は必ず政権に向かうはずです。ましてや、今は、ネットとSNSにより即座に情報や主張が広がります。

アフガン戦争がソ連の崩壊を早めたように、ウクライナ侵攻は結局プーチン政権の崩壊を早めるであろうことを確信しています。侵攻は愚かな選択であった言うほかありません。

ひとつ思い出すのは、1993年10月の政変時にロシア連邦軍が保守派ではなく市民をバックにしたエリツィン側につき、保守派が立てこもる最高会議ビルを戦車で砲撃した事件です。この衝突を通じてエリツインは権力を握りました。ロシアにあっても、軍が必ずしも保守側につくとは限らないという事例です。ましてや、プーチンはKGB出身であり、軍に基盤は持っていない筈です。

ウクライナの支配を通じて多数の犠牲者が出た場合、いっそうの泥沼に陥った場合、軍は果たしてプーチンに忠実であり続けるでしょうか?現実は極めて危ういバランスの上にあり、プーチンの権力は必ずしも盤石であるとは思えません。

独裁者による弾圧が過ぎる場合には哀れな末路も想像できます。ルーマニアのチャウシェスク元大統領の最後も思い起こされます。

なお、西側各国はエネルギー供給のひっ迫や価格高騰といった返り血を覚悟しての金融制裁に踏み込もうとしています。加えて、世界各国では自然発生的な抗議デモに加えて、スポーツや文化のあらゆる分野で抗議の声が上がっています。サッカーワールドカップ予選でのロシアとの試合拒否などはロシア国民にとって世界からの孤立を際立たせるものであり、その不満の矛先はプーチンに向かう筈です(たかがサッカーと言うなかれ)。

ロシアの同盟国カザフスタンがウクライナへの軍派遣を断っていたとの報道が入ってきました。カザフスタンではつい先日、ロシア主導の集団安全保障条約機構(CSTO)に部隊派遣を要請して治安を回復したばかりで、ロシアとの関係を強めたとみられていました。「終わりの始まり」が加速しているのでしょう

欧米による武器供与のニュースも聞こえてきます。しかしながら抗戦の煽りは犠牲者を増やすだけです。ウクライナでの犠牲者出さない抵抗と、ロシア国内と国際世論、さらには自らの身も切る経済制裁によってプーチン政権が一日も早く自壊することを望んでいます。

 

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2020年5月 7日 (木)

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を読んでみた

Photo_20200507180501 新型コロナウィルスのまん延にはさすがに危機感を抱かざるをえず、世の中に合わせて巣ごもり状態となっています。外界との接触はもっぱら毎日1時間ほどの近所ウォーキングとZOOMを使った会合(いわゆる「ZOOM飲み」も含め)に限られています。いまだに無能・無策ぶりを発揮している安倍政権には怒りと情けなさがこみあげてくるばかりで、TVのニュースからもつい顔をそむけたくなる毎日が続いています。

  ということで(?)手に取ったのが『カラマーゾフの兄弟(光文社文庫、亀山郁夫訳)』です。学生時代以来、実に50数年ぶりの再会です。『カラマーゾフの兄弟』といえば、多感な青年時代のいわば通過儀礼のひとつとして読まれた方も多かったのではないでしょうか。私もそのひとりで、気儘でたっぷりと時間のあった下宿生活だったということもあり、思い切り没頭したものでした。

  さて、50数年前と比べるならば、読み手として観念的な場面への集中力の欠如や想像力の著しい劣化を自覚せざるをえませんでした(泣)。かつては何とか理解を深めようと、例えば「大審問官」の章は何度か繰り返して読みこんだものです(だからこそ、50年を経ても幾つかの場面を断片的に記憶していた)。しかし、今では、この難解な章は読み通すのはかなり辛い作業になっており、推敲への忍耐が続くことはありませんでした。

  登場人物への思い入れにしても、かつては偽悪的かつ自己満足的に自分の姿を重ね合わせていた次男イワンから、今回はむしろ裏がなく、素朴で単純、放縦、直情的で破滅型の長兄ドミトリーの姿により強い共感を覚えるように変わりました。脳内の劣化が観念的な思考を受け付けなくなったということだけではなく、世の中、観念や抽象的思考では動かないということを人生訓的に積み重ねてきたことの結果かなとも思います。

  一読者としてのこの期間中の大きな経験はロシアでの生活でした。西シベリアのトボルスクでの長期滞在に加えて各地を訪れることで、ロシアの大地、生活、人々に直接触れてきました。帝政時代にドストエフスキー家の領地があり、この小説の原点となる父親の殺人事件の現場ともなったモスクワ南部のトゥーラ県にも足を運んだことがありました。この地域、時代のロシア農村の風景を想像したり、また共に仕事をすることを通じて、ロシア人たちの様々な気質もある程度は理解できるようになりました。そのことが、観念で物事を考えてきた学生時代のイワンへの共感から、よりリアルな人間像としてのドミトリーへの乗り換えが起こったのかもしれません。

  亀山郁夫氏の翻訳は実に読み易く、このシリーズが新訳と銘打って発刊された時は大きな話題となりました、この難解な作品を広める新たなかつ大きな契機になったことと思います。ところで、訳者の亀山氏には『カラマーゾフの兄弟の続編を空想する 』というとても興味深い著作があります(2007.9光文社新書)。ドストエフスキーにより続編が計画されていたことは周知の事実ですが(そもそも本編小説の前書きに明記されている)、その内容についての推理と想像が大いに語られています。首題はどうやら第二の父親(皇帝)殺しで、アリョーシャが実行犯となるコーリャ(少年たちの一人でした)を示唆するというものらしいです。第一の殺人でイワンがスメルジャコフを示唆した構図の繰り返しになるのでしょうか?その後の主人公たちの往き末と共に永遠に読むことの出来ない物語に興味が尽きません。

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2019年12月14日 (土)

福島第一原発の視察

 Dsc_7637 一昨日、福島第一原発(1F)と除染廃棄物の中間貯蔵施設を視察する機会がありました。 1F構内に入るのは初めての経験でしたが、各施設や構内は予想以上に整備・整頓されていました。執務室や食堂など事務棟の各部屋は明るく清潔で、人々の顔つきからも悲壮な表情は見られませんでした。放射線環境も大きく改善されていました。原子炉建屋周辺を除いてはタイベックス防護服姿の作業員も少なく、我々も防護服なしでの視察となりました。原子炉建屋を見下ろす架構上での線量は約100μSv/hと大きめでしたが、3時間ほどの滞在で累計線量は0.01 mSv(全γ線)でした。事故後8年を超えて放射能が減衰したのに加えて、ガレキなどの廃棄物が除去され、敷地内の殆どがフェーシング(吹き付けも含めた舗装)された効果でしょう。

  一方で、廃炉に向けた道は極めて困難であることが改めて実感できました。東電と経産省(資源エネルギー庁、廃炉・汚染水対策チーム)による30-40年で廃炉措置達成という目標は「絵に描いた餅」です。廃炉事業の最大の目玉といえるデブリ(溶融燃料)の取り出しについては、格納容器内が高線量ゆえに、ほんの一部を除いてその位置、形状さえも把握されていないのが現状です。正常に役割を終えた原子炉の廃炉でさえ、通常は数十年かかります。1998年に運転を終えた東海(第一)原発は2030年度に解体作業の完了予定とのことですが、これまでも延長を重ねてきましたので更に遅れるでしょう。

ましてや事故炉となると、例えば、米国スリーマイル島原発は1979年に事故を起こしましたが(燃料は溶融したが圧力容器内に留まり、格納容器は無事)、40年を経た今年、「今後、60年をかけて廃炉にする」と発表しています。格納容器が健全なスリーマイル原発一基だけで100年かかります。格納容器が損傷し、建屋が破壊され、放射能が飛び散った福島原発4基の廃炉・解体がたった30-40年で終了する筈がありません。

これには、今後の国内原発の再稼動推推進に向けて福島事故を少しでも小さく見せたいという政府の意向が大きく働いているのでしょう。このような虚偽、欺瞞のロードマップを前提として膨大な被ばく作業が強いられ、泥縄式の汚染水対策が続き、地域住民は放射能の残る(1.0から20 mSv/年への基準緩和も大問題!)地元への帰還を迫られています。形だけの復興が大きな破綻や新たな災禍を招くことを懸念します。

 私たち(原子力市民委員会)では、巨額コストと被ばく労働を避けるために、原子炉建屋まるごとの長期隔離保管を提案しています。詳細は原子力市民委員会のHPより「特別レポート・100年以上隔離保管後の後始末」をご覧ください。

http://www.ccnejapan.com/

 そしてもう一つの大きな懸念が溜まる一方の汚染水の問題です。先日、インターネットTV「デモクラシータイムズ」にて、この件についてお話をしてきました。

https://youtu.be/3aOgrHaYc4Q

ご覧になっていただければと思います。

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(写真提供:原発ゼロの会)

 

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2019年6月15日 (土)

映画『旅のおわり世界のはじまり』

 全編ウズベキスタンロケのロードムービー「旅のおわり世界のはじまり」を観てきました。元AKB48の前田敦子演じるTVレポーターの主人公が様々のトラブルに見舞われながらも成長していくという物語です。特に波乱万丈や起承転結の筋書がある訳ではありません。ロケはタシケント、サマルカンドなどの各地で行われていますが、特に観光地巡りの映像となっていなかったところは好感が持てます。バザールの場面では、背景に人々の生活の息吹を感じることが出来ます。何の変哲もない裏通りや広場、郊外などがそのまま舞台になっていました。

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 まぁ当然といえば当然ですが、突っ込みどころはかなりあります。ナボイ劇場内ではどうにか我慢出来ても、あのウズベキの大自然のなかでの「愛の賛歌」はあまりにも場違いな選曲でしょう。場面が、土漠地帯のアイダルクル湖から雪山をいだいた山岳地帯(フェルガナへと至る峠の辺り?)に一足飛びするのも違和感です。羊を逃す逸話は身勝手な行為そのものです。放した草原は高圧線だらけ、もっと別な撮影箇所があったでしょうに。

欠点ばかりを挙げても仕方がありませんね。この映画を観て、ウズベキスタンに興味をもってくれる人が少しでも増えることを願うばかりです。

 一応評価点です。作品50点、「前田敦子の愛の賛歌」でマイナス20点、最後の「ドアップ」でロードムービーがアイドル映画になった瞬間マイナス10点。結果20点。前田敦子ファンの皆さま、ごめんなさい。

  二つの建設プロジェクトに関り、数年間をそこで過ごした自分にとって、ウズベキスタンは馴染みの深い国です。昨年の今頃は久しぶりにこの国を訪れ、懐かしい通りを歩き、慣れた料理を味わい、旧知の人々と再会してきました。この映画を高評価することは出来ませんでしたが、また中央アジアの風に吹かれてみたいという欲求が頭をもたげてきたぞ。

 

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2018年12月15日 (土)

『ファルスタッフ』 @新国立劇場

0c3112c5s_2 1シーズンに一回の新国立劇場、今回はヴェルディ『ファルスタッフ』でした。音楽も舞台も素晴らしく、ヴェルディ最後のエンターテイメント作品を大いに楽しむことが出来ました。なお、この公演のダイジェスト映像はここで観ることが出来ます。

まず特筆すべきは東フィルの演奏です。最初の一音から終音の残響まで、全く弛緩することのない極上の音の厚みと小気味の良いスピード感を味あわせてくれました。これまで多くの新国立劇場での演奏に接してきましたが、今回はとりわけ身体に直接染み入るような心地好い演奏です。ヴェルディの音楽そのものの力、オケ(東フィル)の性能に加えて、指揮者カルロ・リッツィの力量とイタリア人の血に拠るところが大きいのでしょうか。

もう一つの特筆すべき点は舞台美術とジョナサン・ミラーによる演出です。中世オランダ風の色調と幾何学模様はまるでフェルメールの世界です。部屋に置かれた小物類や窓から入る日差しの柔らかさなど、計算しつくされた美しさに目を奪われます。幾何学模様の床は遠近法が強調され、人物を小さく見えます。舞台を広く見せるためなのか、あるいは登場人物たちの矮小さを強調する皮肉の表現なのでしょうか?ストーリーはシェークスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」に基づくイギリス喜劇で、終始、楽しくユーモアと機知に溢れた物語を楽しむことができました。

 

出演者では4人の婦人たちの軽妙なハーモニーとコミカルな軽快な身のこなしが見事でした。オペラグラスを持参し忘れたため、アリーチェ役の美貌ソプラノ、エヴァ・メイの表情を見ることが出来なかったのが残念です。日本人歌手ではナンネッタ役の幸田浩子さんの美しい声に惹かれました。美しいアリアをあてがわれている得な配役ですね。

圧倒的な音の力で聴く者をねじ伏せるヴェルディの作品群の中でこの「ファルスタッフ」の軽妙さ、気張ることのない魅力は年齢とともに楽しめ作品であるような気がします。

 手元には2001年のミラノ・スカラ座による映像盤があります。R・カップッチョの演出はオーソドックスで、R・ムーティ(指揮)のオケは小規模ながら小気味の良い演奏を聴かせてくれます。当時は若手のB・フリットリ(S)、I・ムーラ(S)、JD・フローレス(T)らの出演が初々しいです。

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2018年7月 5日 (木)

映画『マルクス・エンゲルス』

なぜ今、「マルクス・エンゲルス」なのでしょうか?640

この作品が訴えようとしているメッセージは一体何なのでしょうか?この映画の中で、主人公の若きカールマルクスとフリードリッヒ・エンゲルスたちは19世紀半ばのヨーロッパを舞台に、官憲のみならず多くの政治党派との路線や綱領をめぐる闘いを繰り広げます。

若い二人の不屈の闘いを描くことを通じて、今の時代に階級論や共産主義思想の啓蒙を図るのが目的とも思えませんし、マルクス主義の現代的読み替えの試みがなされている訳でもありません(*1)。物語としても特に波乱万丈という訳ではなく、歴史的事実が淡々と進行して行きます。映画の中での議論も史実に沿ってその時代を反映したもので、特に現代風にアレンジし直したものではなく、劇的効果を高めたものでもありません。映画のサイト等で製作者の意図を探ることはしていませんが、見終わった後の中途半端な気持ちは拭えないままです。

自分のマルクス体験もすでに遠くなりました。学生時代や組合活動時代を通じて、この映画のモチーフともなっている「共産党宣言」や「賃労働と資本」といった入門書に加えて、「ドイツ・イデオロギー」「経済および哲学手稿」「経済学批判」等々にも手を出したものです。解釈への良き助けになると同時に、変革に主体的に関わる姿勢を分かり易い言葉で教えてくれたのが「人間論」(三一書房)などの梅本克己の一連の著作でした。企業に入ってからは労働の位置づけや価値について向き合うこととなり、また組合活動の一環として冊子を纏める必要も出てきました。その際に常に規範となったのも前述の「経哲手稿」からの「労働疎外」の視点で、その後の自分の考え方にも大きな影響を与えてきました。今、取り組んでいる原発や環境問題を企業や労働からの視点で考える際にもこの原点にしばしば帰る思いがしています。

さて、映画に戻ると、それぞれ興味深い議論の場面が多く、この時代は思想家や党派の間での理念上の闘いが主でした(それでも無政府主義者や共産主義者たちは厳しい弾圧を受けていました)。マルクス達が持ち込んだ妥協なき階級闘争への宣言は、その後、ロシア革命にて現実のものとなります。

実は、今読み返しているのがジョン・リードの名著「世界を揺るがした10日間」です。ロシア10月革命時のドキュメンタリーで、革命家や労働者たち登場人物の一人一人が実に生き生きと描かれています。ジョン・リードの半生を映画化した「レッズ」はハリウッド映画ということもあるのでしょうが、思いっきり感情移入のできる作品でした。もともと比較に無理があることは承知ですが、今回の「マルクス・エンゲルス」には、折角の題材を生かすためにも、もっと共感を得るための脚本上や演出上の工夫があっても良かったのではと思います。メッセージの欠如と併せて残念な思いです。

(*1)例えば、マルクス主義の現代的な読み替えの例として、的場昭弘著「マルクスだったらこう考える」(光文社新書2004年)などは新鮮で面白く読みました。今、マルクスの視点で現代社会を問い直す試みは無駄ではないと思います。

 

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2018年3月11日 (日)

オッフェンバック『ホフマン物語』 @新国立劇場

2013_hoffmann_05_aek2510_fixw_730_2年に一度の生オペラ、今回は大好物(?)のひとつ、『ホフマン物語』でした(310日、新国立劇場「新国」)。音楽も舞台も素晴らしい出来栄えで、この極上のエンターテイメント作品を大いに楽しむことが出来ました。

同演出(2013年公演)のダイジェスト映像は以下で観ることが出来ます。

https://www.youtube.com/watch?v=gRdJQ4blx2E

先ず、演出のフィリップ・アルローによる鮮やかな舞台色彩に目を奪われます。第2幕では人形オランピアのコミカルな動きに合わせて、蛍光塗料に身を包んだ合唱団にも一斉に同じ動きをさせるという鮮やかで遊び心満載の洒落た演出に会場が幸福な笑いに包まれていました(写真上)。第3幕ではうって変わって静謐で幾何学的舞台装置と暗い照明で物語の悲劇性を浮き彫りにし、第4幕ではグランドオペラに相応しい豪華な舞台装置と色彩、衣装が音の洪水と相俟って、この作品のゴージャスさをいっそう引き立てていました。物語に沿った幕場ごとの対比が実に鮮やかでした。なお、アルローは以前のR・シュトラウスの『アラベッラ』(2014年新国)でも演出を手掛けており、この時も深い青色を基調とした美しい舞台を見せてくれていました。

もう一つの嬉しい驚きは、3つの物語でそれぞれヒロイン役を演じる、安井陽子(オランピア)、砂川涼子(アントニア)、横山恵子(ジュリエッタ)の3人が素晴らしかったことです。通常、主役級には外国人歌手を招聘する新国ですが、この3人は堂々とした舞台姿に加えて、歌唱、演技も申し分がないものでした。主役ホフマン(D・コルチャック)の伸びのある美しいテノールに対等にわたり合っていました。しばしば新国の舞台に登場する森麻季さんら数人を除いて、日本人ソプラノたちについての知見は殆どないのですが、若く有望な彼女たちの将来には大いに期待です。

ラストにホフマンが自死してしまう演出には驚きました(ネタバレご容赦)。詩人としての再生の物語として捉えていたのですが・・・。オペラ作品には、演出家次第で生死を分けてしまうものが幾つかありますが、この作品もその一つだったのですね、

以前、メトロポリタンのライブビューイングで観た「ホフマン物語(2009年版)」の感想は以下です。

http://kawai0925.cocolog-nifty.com/yasu47/2010/01/met-1078.html

バートレット・シャーの演出は同様に色彩的で豪華、メトの音も贅沢です。好みで言えば、オランピアは新国の安井陽子、ニクラウスはMETのケイト・リンジーの勝ちでしょうか。

今回の舞台はぜひBSで放映してもらえたらいいですね。もう一度観たい作品です。

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2017年3月 8日 (水)

映画 『日本と再生~光と風のギガワット作戦』

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表題の映画を観てきました(渋谷のユーロスペースにて3/10まで上映中)。前作「日本と原発」に続く、河合弘之監督(脱原発弁護団全国連絡会代表)の新作品です。お馴染みの飯田哲也氏(ISEP所長)と共に、世界ならびに日本各地の現場と人々を訪ねながら、再生可能エネルギー利用の現状と展望を分かり易く紹介するものです(予告動画は以下)。

https://www.youtube.com/watch?v=U1Kc-8_infI

映像と解説によって世界の現状を目にすると改めて驚かされることばかりです。ドイツやデンマーク、更には中国で風力発電の風車が林立する光景は驚きそのものです。福島事故の当事者であるにも拘わらず、日本が原発に固執し、再生可能エネルギー普及に後ろ向きの政策をとり続けていた間に各国は風力と太陽光(熱)を中心とした再生可能エネルギー普及率の向上のみならず関連産業の育成にも大きな成果をあげていたのです。

ドイツの風車群は懐かしい光景でした。かつて2000年前後に長期滞在していたころ、ライン川沿いの丘陵地帯を頻繁に訪れましたが、視界の中には必ず風車群がありました。1986年のチェルノブイリ事故時に深刻な汚染に見舞われたドイツではいち早く脱原発と再生可能エネルギーによる分散型地域発電の普及に向けた取り組みが開始されていたのです。

一方、国内であっても、例えば、北海道のオロロン街道(留萌から稚内)沿いに並ぶ、また宗谷半島の丘陵地帯を埋め尽くす風車などは10年以上も前から壮観でした。しかし、その後の普及の速度はあまりにも遅かったと言わざるをえません。原発と石炭火力をベース電源と位置付ける限り、再生可能エネルギーによる発電産業や送電機能はその育成が阻まれ続けます。福島事故というあまりにも大きな犠牲を伴った教訓を生かしてエネルギー基本計画を根本的に見直さない限り、再生可能エネルギーの普及と関連産業の発展は世界の潮流からますます立ち遅れていくしかないでしょう。

映画の中で示されたデータで最も興味深かったのは世界の「風力+太陽光」と「原発」のトータル設備容量です。2000年以降、前者が急拡大し、2012年に逆転、2016年には前者が約400GW/h、後者が約800GW/hと自然エネルギーが原発の倍の容量を持つことになったのです(更に拡大中)。世界のすう勢はもはや明らかです。

私たちの列島は風、太陽、地熱、森、川の流れ、潮力といった自然の恵みに溢れています。それらの力を借りながら、一方で省エネルギーの実行と投資を進めることで、電力の100%を再生可能エネルギーで賄うことは決して不可能なことではありません(その意味で、電力をがぶ飲みするリニア新幹線建設計画など愚策以外の何物でもないと思います)。

この映画は、再生可能エネルギー普及の現状と将来を知ることで、脱原発へのいっそうの確信、更には勇気と希望を与えてくれる作品です。一昨年、地元の「脱原発八千代ネットワーク」では「日本と原発」の自主上映会を実施し大好評でした。本作の自主上映もぜひ実現したいと思います。

最後に一言・・・エンディングに流れる坂本龍一さんのピアノ曲がとても心に染み入りました。

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2017年2月 8日 (水)

東芝~原発ビジネスの末路

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 年末から
1月にかけて、東芝は米国の原発建設事業で7000億円規模の損失を出していることを発表しました。詳細は214日の第3四半期の発表の際に報告予定とのことですが、全貌が判明するのはもう少し時間がかかるでしょう。

東芝は昨年度も最終損益で4,600億円もの赤字を計上しました。2006年に買収し子会社化した原子力専門のWestinghouseWH社)に係る損失です。それ以外にも数年にわたる様々な分野での事業損失や不適切(粉飾)会計などにより、東芝の資産額は危険水位に達し、信用は地に堕ちていたといえるでしょう。

 

さて、今回の米国建設事業における損失は、現在も建設中のVogtle (JA)V.C.Summer (SC)の両原発と言われています。建設事業でコンソーシアムを組んでいたCB&I社が原発事業から撤退するにあたり、実際の建設業務を請け負っていた子会社のS&W社を買い取ったものの、そのS&W社の損失見込み額をこれまで見抜けていなかったとされています。企業買収や投資判断にあたっての大前提であるDue Diligence(詳細評価)の不足あるいは欠如という基本的な企業ガバナンスが欠落していたといえるでしょう。東芝はもともとモノ造りの会社であり、建設やプロジェクトといった分野に知見・経験が不足していたとはいえ、あまりのお粗末さには呆れるばかりです。

 

東芝の今期決算に与える損失要素はこのS&W問題に限りません。これまでの原発絡みのニュース断片を拾い集めるだけで以下の項目が浮かび上がります。

l 米国サウステキサス事業(STP)の継続コスト

l 英国ニュージェネレーション事業の継続コスト

l 米国レビィ原発契約解除に伴う訴訟費用

l 中国での建設事業収支(4基)

l 米国フリーポートLNGの引き取り契約に伴う損失リスク

 

この期に及んでも、東芝は原発事業をまだ続けるつもりでしょうか?「建設」からは撤退、あまりにも楽観的であった事業計画の見直しは検討されているようですが、すでに経済的合理性の失われている原発事業にこだわり続けることは、株主や関連会社を含めた多くの従業員の不幸が再生産されていくだけのように思います。

 

状況は競合他社においても同じようなものです。三菱重工はベトナムで計画されていた案件が白紙撤回され、トルコ計画はカントリーリスク等により暗礁に乗り上げ、米国サンオノフレ社からは納入した蒸気発生器のトラブルに起因して約8,000億円の損害賠償請求を受けています。日立は英国のホライゾン事業の見通しが立たず、パートナーのGE社も原発事業に積極的ではありません。フランスのアレバ社はフランス、フィンランドの建設事業で巨額損失を被りすでに破綻・国有化の道を歩んでいます。4月からの国内燃料事業の統合を皮切りに各グループの再編も目されているようですが、今こそ抜本的な改革、すなわち、原発事業からの撤退と再生可能エネルギーを中心とした産業構造への転換が求められていると思います。

 

各原発建設事業会社の表面的な動向を眺めてきましたが、先日(131日)、ネットTVFFTV)でお話する機会がありましたので詳細はそちらをご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=dCNB3gf0000

また、3か月前にはより網羅的な報告をしています。

https://www.youtube.com/watch?v=_3QIjcYf7AI

 

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2016年12月20日 (火)

鹿島アントラーズの応援に幸せな日々

1111123日の川崎フロンターレとのチャンピオンシップ(CS)準決勝に始まり、1218日のレアル・マドリードとのクラブワールドカップ(CWC)決勝に至るまで夢のような、7試合、25日間でした。2ndシーズンの終盤は4連敗に沈み、年間順位では3位、しかも1位の浦和レッズには勝ち点を15も離されるという不甲斐ない成績で終わり、リーグチャンピオンには輝いたものの、一抹の不満足を感じたものでした。しかしながら、そのCSCWCでは、常に攻撃力で上回る相手に対して挑戦者として戦うという姿勢が試合ごとにチーム力をより強くしていったように感じました。CWCでは開催国枠の出場でしたが、むしろ、それだからこそトーナメント表の最下層から這い上がって、オセアニア、アフリカ、南米の各大陸チャンピオンを倒してきた軌跡に誇らしいものを感じるのです。

 

決勝でのレアル・マドリードの強さは本物でした。GK曽ヶ端とDF昌子のディフェンスに手に汗を握り、MF柴崎の2ゴールに沸き、一時は2-1とリードし、後半アディショナルタイムではあわや決勝点かというMF遠藤のシュートもありましたが、結局は延長戦で力尽きました。あと一歩までレアルを追い詰めたものの、同時にその一歩の大きさも思い知らされた決勝戦でした。世界の壁が厚いものであることを改めて思い知るとともに、来シーズンではアジアチャンピオンリーグ(ACL)での優勝と再度のCWCへの挑戦こそが選手、スタッフ、サポ共通の目標として持つことができたと思います。来シーズンはMF柴崎を含めてこのCWCで活躍した何人かの選手が欧州への移籍を果たすでしょう。一方で、大型の補強も確実視されています。戦力的に劣ることはないと思われますが、今回の連戦で獲得した「チームでとことん激しく戦う姿勢」の維持はそう簡単ではないでしょう。年間を通じて過密日程も懸念されますが、全ての試合、どんな相手に対しても全力を出しきってもらいたいと思います。

 

と、来シーズンの前に週末24日には天皇杯準々決勝(対サンフレッチェ広島戦)が開催されます。残念ながらカシスタには駆けつけられませんがTVの前で応援します。選手たちの疲労は極限にまで溜まっているでしょうが、元旦までの3連戦に全力を尽くし、主要タイトル19冠目を獲得してもらいましょう。アントラーズサポーターであることの幸せと誇りをもう少し味あわせてもらうことにします。

 

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2016年11月17日 (木)

『トリスタンとイゾルデ』@METライブビューイング

Trist_2662a6_2メトロポリタン・ライブビューイングの2016-2017シーズンが始まりました。このシリーズを観始めたのが2007-2008年のシーズンですからすでに9年目に入っています。最初の作品は「ヘンゼルとグレーテル」で、当時はレビュー記事を本ブログに真面目に毎回アップロードしていました(^^;)。いまでも毎年数本は見ているのですが、ブログへの投稿はすっかりさぼっています。

  さて、「トリスタンとイゾルデ」は中世騎士物語、冗長、メリハリ不足といった勝手な先入観でこれまで避けてきた作品でした。しかし、MET LVの指輪シリーズ全4作を飽くことなく、アンコール上映を含め3サイクルも通ってしまったことでワーグナーアレルギーからは自由になり、今回の上映はこの作品への挑戦の絶好の機会となりました。そして結果として、音楽、舞台映像ともに期待通りの素晴らしさで約5時間にわたる実に濃密な音楽時間を楽しむことが出来ました。

 イゾルデのニーナ・ステンメ(S)は昨シーズンの最後を飾ったR・シュトラウス「エレクトラ」でも素晴らしい歌唱と演技を披露してくれたばかりでした。それ以前は映像でのブリュンヒルデ(スカラ座、2010年、2012年)への違和感(歌唱は立派でも直立不動、衣装の不似合い、表情の怖さ(^^;))のせいか、決して好みの歌手ではありませんでしたが、「エレクトラ」での印象は一変しました。彼女には現代風演出であることに加えて、ドラマチックソプラノの奥深さを味わせてくれる、密室劇が似合うのかもしれません。いずれにせよ、ステンメによる、エレクトラ、イゾルデの初体験がこれらの作品への共感を思いっきり深めてくれました。

指揮のS・ラトルはMETライブビューイングでは初登場でしょうか?圧倒的な音の洪水になりがちなオーケストラを抑制的に美しく鳴らしていました。インタビューで、「出演者たちが、自分のアピールではなく、一体感のある舞台を創ることに集中していた」と発言していたように、あくまでも観客の立場に立ち、音楽の持つ魅力自身に語らせることを優先していたように思えました。

M・トレリンスキによる演出は上述したように、現代に置き換えていますが、密室劇のため全く違和感はありません。観る者にとっては、媚薬によって人格が一変してしまうという「おとぎ話」要素は無視して、ただひたすらに、「愛と死」だけに魅せられた男女の濃密な音楽劇に浸ればよいだけなのです。その意味で、元々は映像作家というトリレンスキの美しく幻想的な場面を含む現代風の舞台美術はこの作品にぴったりでした。常に海の香りを漂わせる映像も、アイルランドと英コーンウォール地方を結ぶ海峡を舞台とした物語のリアリティを増すことに貢献していました。

これで「トリスタンとイゾルデ」への苦手という先入観は払拭することは出来ましたが、ワグネリアンの世界はまだまだ遠いままです。さて、9年目に入ったライブビューイングの演目も繰り返しが多くなってきました。今シーズンで目を惹く作品は「ナブッコ(雄渾な音楽)」、「エフゲニー・オネーギン(未見)」、「ばらの騎士(ガランチャ出演)」といったところでしょうか。あ、来夏のアンコール上映での「トリスタンとイゾルデ」は必見・必聴となるでしょう。

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2016年10月14日 (金)

映画 『東学農民戦争~唐辛子とライフル銃』


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年、朝鮮半島で起こった甲午農民戦争(東学農民革命)を掘り起こすドキュメンタリー映画を見ました(@在日韓国YMCAホール)。

「東学」は1860年に崔済愚(チェジェウ)によって創始された、人々の平等を強調した宗教思想で、貧困と差別にあえぐ人々の間に急速に広まりました。教祖の崔済愚は1864年に朝鮮政府(当時は李朝)によって処刑されましたが、その思想は後継者たちによって引き継がれていきました。

 東学農民たちは1894年に全琫準(チョンボンジュン)を指導者として朝鮮王朝に対して蜂起し南部を席巻します。朝鮮政府は清国に援助を求め、一方、清国による朝鮮半島支配を嫌った日本は朝鮮政府の了解を得ずに約8000人を派兵し(清国側は1500人)、それが日清戦争の引き金になりました。東学農民軍はいったん朝鮮政府と和解したものの、日本軍侵攻に抗して再び起ち上がりましたが、反乱は圧倒的な武力の差により約5か月間で壊滅しました。東学の反乱を鎮圧し、日清戦争にも勝利した日本はその後、朝鮮政府を傀儡化し、日露戦争を経て、1910年の日韓併合へと至り、朝鮮の人々の新たな苦難が始まります。

映画は日本人である前田憲二監督による東学に関わった人々の子孫へのインタビューと関連する史跡の紹介が中心です。監督の執念ともいうべき記録へのこだわりが感じられますが、当時の写真や絵、資料など視覚に訴えるものが少ないのが残念でした。しかし、人々の記憶からも忘れ去られようとしていた歴史の一コマをこうして掘り返されることで日朝の歴史の暗黒部分に少しでも光が当てられればと思います。私も本棚に長い間眠っている「朝鮮近代史(渡部学、勁草書房)」や「日本近現代史③日清・日露戦争(原田恵一、岩波新書)」、「閔妃暗殺(角田房子、新潮社)」などのページをめくり返しています。

さて、「東学」は、幾多の苦難を乗り越えて、今も「天道教」として南北朝鮮半島の社会に根付いているとのことです。ネット検索すると「天道青友党」なる北朝鮮政党がヒットしたのには驚きました。ウィキペディアによれば韓国における信者は人口の0.1%以下とのことです。圧制下の土着信仰から始まり、同様に宗教弾圧を受けた日本の大本教と相通じるものがあるのでしょうか?

いろいろと興味の種はつきません。

 

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2015年12月24日 (木)

高浜原発~運転差し止め仮処分の不当決定

とんでもないクリスマスプレゼントでした。

本日午後、福井地裁(林裁判長)は、4月に樋口裁判長によって下された高浜原発差し止めの仮処分命令を取り消しました。決定の全文と要旨は以下の弁護団URLにあります。

http://www.datsugenpatsu.org/bengodan/news/15-12-24/

要旨をざっと読んでみましたが、原決定の「新規制基準はあまりに緩やかにすぎ、これに適合しても本件原発の安全性は確保されていない」という、ごくまっとうな判断を、「新基準ならびにそれへの適合性判断は合理的である」といとも簡単に覆し、さらには、原決定が謳い上げて、多くの市民からの喝采を浴びた、事故による「人格権の侵害」や「富の喪失」の問題への言及は一切ありません。政権と事業者におもねり、高浜34号機の再稼働スケジュールを優先した政治判決に強い怒りを覚えます。2015122400010002fukui00010view1_2

大飯原発運転差し止め裁判地裁判決(20145月)、高浜原発運転差し止め仮処分(20154月)と続いた勝訴によって「司法はまだ生きている」ことに、原発のみならず、戦争法や辺野古基地問題への解決を含めた、この国の未来に期待を抱かせてくれたにも拘わらず、今回の決定は政治権力の下風に立つ司法官僚たちの存在をまざまざと見せつけるものでした。

今回の高浜異議審では、私も耐震設計余裕やストレステストの件などで技術意見書の作成に関わり、弁護団の皆さんと議論する機会も多々ありました。そこで知ったのが、寝食や報酬を度外視して奮闘を続ける弁護士の皆さんの存在でした。弁護団の抗議声明は「私たちは、この不当決定に負けることはありません。(中略)失われた司法に対する信頼を再び取り戻すために最後まで闘い抜くことをお約束します」と結んでいます。高裁での闘いは続くでしょう。原告団と弁護団を多くの市民で支えていきましょう。

(追記)

高浜原発をめぐっては、2016年3月9日に大津地裁(山本裁判長)にて運転差し止め仮処分の決定が下されました! 稼働中の3号機は直ちに停止され、4号機の再稼働は中止されました。現在(2016年10月)、舞台は大阪高裁に移され、司法での闘いが続いてます。

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2014年12月 8日 (月)

Jリーグ2014年シーズンの終了

L 土曜日、J1リーグの2014年シーズンがガンバ大阪の優勝をもって終わりました(正確には大雪で順延していた新潟・柏戦が開催された本日をもって)。一昨年のJ2への降格から、昨年のJ2ぶっちぎり優勝、そして今年は昇格1年目にして、とりわけ後半は圧倒的な強さを発揮したガンバは見事でした。おめでとうございます!

応援をしているアントラーズは最終節まで優勝の可能性を残しましたが、最終の鳥栖戦に敗退し、逆転優勝を逃しました。スポーツの結果に「たら・れば」を持ち出すことは空しさが増すだけなので、ここは力が一歩及ばなかったことを潔く認めるしかありません。

むしろ、今年は世代交代が順調に進み、若い選手たちの成長と躍動を目の前で見ることができたことが大きな喜びでした。すでにチームの中心となっているMF柴崎を先頭に、DF昌子、DF植田、MF土居、MFカイオ、MF豊川など二十歳そこそこの選手たちが大活躍をしました。加えて、MF小笠原、MF本山、GK曽ヶ端らのベテラン、DF西、DF山本、MF遠藤らの中堅も健在です。セレーゾ監督の続投も早々と決まっており、来シーズンは若鹿たちの経験値の上積みによる黄金時代の再来が今から楽しみです。不安要素は柴崎の海外移籍の可能性ですが、その時は快く送り出しましょう。

一方で、MF中田浩二が今シーズンをもって引退しました。仙台のFW柳沢、水戸のFW鈴木隆行も含めてアントラーズの第2期黄金期を築いてきた名選手たちの引退は淋しいことですが、今後の新しい持ち場での活躍を祈りたいと思います。お疲れさまでした。

来年の楽しみのもう一つが、ACL(アジア・チャンピオンズ・リーグ)への2011年以来4年ぶりの参加です。もし、G大阪が天皇杯も制したらリーグ3位のアントラーズは無条件、もし決勝で山形に敗れたらプレーオフに回ることになりますので(日本の枠は3.5)、ここは悔しいですがぜひガンバに三冠を獲得してもらいましょう。

来シーズンは、若い力でリーグ年間優勝と共に、ACLの頂点も目指してもらいましょう。スタジアムに行くのも楽しみです。それまでは、ストーブリーグに注目です。セレッソの選手たちはどこへ散っていくのだろう?

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